特集「日系アメリカ人ジャーナリストたちの肖像」より
■ 書くべきこと、伝えるべきことを抱えて活動を続ける日系アメリカ人ジャーナリストの方々に、彼らの軌跡と夢について伺いました。
(※ライトハウス・2022年8月号特集「日系アメリカ人ジャーナリストたちの肖像」掲載のマツカワさんへのインタビューを元に、作成しています。)
▲ Lori Matsukawa ハワイ州ホノルル生まれ。1974年に「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」に選出。スタンフォード大学をコミュニケーション専攻で卒業し、カリフォルニア州レディングのテレビ局勤務を経て1983年にシアトルのKING-TV入局。以後36年間、同局のニュース番組のレポーター、後にアンカーを務めた。日系人収容所体験をテーマにしたドキュメンタリー『Prisoners in Their Own Land』(2018年)、『Shane Sato: Portraits of Courage』(2019年)でエミー賞受賞。2022年には日本政府より旭日双光章を受章。ワシントン州ベルビュー在住。 |
” 物語を伝えることで人々の絆が生まれ、世界はもっと素晴らしい場所になる ”
ー祖母は写真花嫁
私は、正式にアメリカの州になる少し前のハワイのホノルルで、日系3世として生まれました。でも、生まれ育ったハワイの地でマイノリティーだと感じたことはありません。なぜなら、多い時で、ハワイ州民の43%が日系人だったからです。断然トップのマジョリティーでした。現在は日系が州民に占める人口は2位で、フィリピン系がトップになりました。
私は日系人だということを非常に強く意識しながら育ちました。友達は皆、日本語学校に通っていましたし、日本語のミドルネームを持っていましたしね。私? 実は私は日本語学校に通いませんでした。母に「日本語学校に行く?それともフラダンスの学校に行く?」と聞かれて、即座にフラダンスを選んだからです(笑)。そして私のミドルネームは「レイ(首にかけるレイ)」です。でも、日本語のミドルネームがなくても、名字の「マツカワ」で私が日系であることは十分伝わるでしょう(笑)。
日本語学校には通いませんでしたが、ホノルルには至る所に日本文化が根付き、日系人が活躍していました。真珠湾攻撃の後でさえ、ハワイ経済に日系人は不可欠な存在でしたから、私の兄も叔父も徴兵されませんでした。彼らはホノルルで乳製品を扱う店を経営していたので、地元民のためにミルクを販売し続ける必要があったからです。
私の母方の祖母は写真花嫁(筆者注:日本からハワイや米国本土に移住した男性と写真の交換だけで見合いをして渡米した日本人女性)として、1919年に広島からハワイに渡ってきました。そして、ホノルルに着いた2日後に祖父と結婚したのです。父方の祖父は10代で新潟からカウアイ島に渡りました。そして家族で、サトウキビ農園で働いていました。
ーミス選出が転機に
高校になってもフラダンスを続けた私は、高校3年の時に友達の勧めで「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」に出場しました。出る気になったのは、大学の学費を稼ぎたいと思ったこと、そして、ミスコンテストながら水着審査がなかったことが理由です(笑)。まず、最初に「ミス・ホノルル」に選ばれ、最終的にアジア系としては初の「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」に選出されました。高校4年時には、私の生活は半分が学校で、残り半分はミスとして日本を含め世界各地を巡るという忙しい日々を送ることになりました。
過去を振り返って「最大の転機はいつか?」と聞かれたら、私は「ミス・ティーンエイジ・アメリカ」に選ばれたことだと答えます。それまでは私は将来、ピアノ教師になろうと考えていました。でも、ミスに選ばれて各地で取材を受けたことで、自分自身が取材する側に回ってみたいと思うようになったのです。
進学したスタンフォード大学ではジャーナリズムを専攻し、就職活動では履歴書を100通以上送りました。でも、面接までたどり着いたのは2社のみ。1社はロサンゼルス・タイムズのビジネス面の記者、もう一つは北カリフォルニアのレディングという小さな町のテレビ局の記者の仕事でした。私がテレビ局を選んだのは、若くて体力があるうちに、自分で運転して機材も運ぶようなテレビの仕事を経験し、その後、新聞に移行すればいいと思ったからです。ところが結果的には、私はずっとテレビ業界に残ることになりました。
▲ 高校時代にミス・ティーンエイジ・アメリカに輝き、日本を訪れた。
ーアジア系ジャーナリストの育成に尽力
シアトルに移ったのは1980年です。マウント・セント・へレンズが噴火した年でした。以来、40年以上、シアトルに住み続けています。この街は非常に多様性に富んでおり、さまざまな人種の人々が共生しています。その点ではハワイに似ています。そして日系社会にも活気があります。また景観としては、シアトルは神戸を思い起こさせます。シアトルと神戸は姉妹都市なんですよ。私もその姉妹都市関連の取材で神戸を訪れる機会に恵まれました。
さて、私がシアトルに移ってきた時、白人以外のテレビジャーナリストはほとんどいませんでした。いたとしてもアジア系ではありませんでしたし、他の都市、例えばロサンゼルスにはトリシア・トヨタ、サンフランシスコにはコニー・チャンがいましたが、シアトルにアジア系は皆無。そこで私は85年に「アジアンアメリカン・ジャーナリスト協会」のシアトル支部を立ち上げ、いかに地元にアジア系アメリカ人ジャーナリストを増やしていくかに力を入れ始めました。必要なことはアジア系学生に奨学金を提供し、業界とのパイプラインを構築することでした。さらに大きな課題は彼らにジャーナリストを目指すというモチベーションを持ってもらうことでした。なぜなら、アジア系の親は学歴を重視し、子どもに医者や弁護士になってほしいと望む人が多いために、子どもたちはジャーナリストに目が向きにくいのです。さらに、メディアの前面に出るキャスターやレポーターのような職業だけでなく、プロデューサー、ディレクター、発行人といったメディアを陰で支える人材の育成にも力を注ぎました。最終目標はアジア系のCEOを出すことです。今後もより多くのアジア系アメリカ人が、テレビを含むメディアの世界で活躍するように後押しを続けていきます。
ー日系収容所体験者の番組でエミー賞受賞
日系アメリカ人にフォーカスした番組作りをこれまでにしてきたか? もちろんです。しかし、駆け出しの頃はそうではありませんでした。なぜなら、自分が「マイノリティーの記者」として受け止められたくなかったからです。しかし、「このまま私がマイノリティーについて報道しなければ、一体これから先、私以外の誰が取り扱うのだろう?」と思った時に、考え方が一気に転換しました。そこで私は日系にかかわらず、アフリカ系、ラテン系、アジア系のニュースを追い始めました。そして、ラテン系、フィリピン系、韓国系など特定のマイノリティーのためのイベントの司会を頼まれると快く引き受けました。
シアトルの日系移民の歴史にも光を当てました。戦時中にシアトルから強制収容所に送り込まれた人、その収容所の中から戦地に赴いた人、また逆にアメリカ政府に抵抗した人を取材したのです。私は、日系アメリカ人たちが戦後に収容所から戻ってきて、ゼロから再出発した話にも焦点を当てました。そのシリーズはエミー賞を受賞しました。おそらく、その収容所シリーズを通して、私の名前を記憶している人が最も多いのではないかと思います。今後も引き続き、若い(日系の)世代にはその物語を学び、語り継いでほしいです。
ー自分は飛べると信じること
私の座右の銘は「Believe and Soar」です。ディズニーランドのアトラクションのダンボに乗ったことがありますか? 象のダンボは「自分は飛べる」と信じることで飛べたのです。大きな事を成し遂げるには「自分にはできる」と信じることが大切だということです。それこそが私の信念です。
今後の目標? そうですね、人々の物語を共有することで互いに感謝の気持ちを持てるように活動していきたいです。例えば、日本で生まれ育った日本人がアメリカでの日系アメリカ人が積み重ねてきた取り組みや実績を知れば、日系アメリカ人のことを誇りに思ってくれるでしょう。さらに日系ブラジル人の移住後の苦労、そして現在、ブラジルで確立した地位について知れば、彼らのこともまた誇りに思うはずです。つまり、私のゴールは人々をつなぎ、より良い関係性を構築することなのです。
全ての人にそれぞれの物語があります。そして、人々のことを知れば知るほど、世界は一つになっていくと信じています。人々が互いに感謝と敬意を抱くことができれば、世界は今よりもずっと素晴らしい場所になるのではないでしょうか。
▲ 2016年に当時の安倍首相と。
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*情報は2022年8月現在のものです