| 「暴走機関車」 1985 © キャノン・グループ■ 監督 アンドレイ・コンチャロフスキー ■ 出演 ジョン・ヴォイト エリック・ロバーツ レベッカ・デモーネイ |
「もし、かつてこの作品が予定通り作られていたら、映画の歴史は変わっていたかも知れない」。古い映画雑誌を見ると、当時製作予定だった作品の中には今そんな気持ちにさせられる記録がある。日本の巨匠、黒澤明にはそんな企画段階で流れた映画、または製作途中で監督を降板した作品がなんとも多い。妥協を許さない製作姿勢と、その膨大な製作費から映画会社がちゅうちょしてしまうためだろう。 1965年の市川崑監督「東京オリンピック」は当初黒澤が演出するはずだった。実際、黒澤は前のローマ・オリンピックまで視察に行き、世界中の選手団が行進する上をいくつものジェット機が飛び回り、最後に巨大スクリーンに「ノーモア・ヒロシマ」という文字が映し出されるという壮大な絵コンテを描いていた。つまり、記録映画の監督ではなく、オリンピック自体も演出するつもりでいたという。結局、予算の面でオリンピック事務局と折り合わずお流れとなったが、もし撮っていたら「民族の祭典」と違う途方も無いオリンピック映画ができていただろう。 日本での製作に行き詰まった黒澤は次に目を向けたのがハリウッド。70ミリ、オール・カラーで「暴走機関車」を撮ると発表。後の1985年にジョン・ボイト主演でアンドレイ・コンチャロフスキー監督で映画化されたが、黒澤明の実際の脚本は全く異なる異色のブラック・コメディだった。主演は「刑事コロンボ」で一世を風靡する以前のピーター・フォークと名優ヘンリー・フォンダ。しかし、当時のバラエティ誌に「暴走機関車」が白黒スタンダートで製作中だという記事が載ったのを不振に思った黒澤が、日本側製作者の青柳哲郎を追及。結局彼の二枚舌がばれ、最終的にハリウッド側の提示した予算額が大きく食い違い挫折。続く1970年には20世紀フォックス社の超大作「トラ・トラ・トラ!」の日本側監督に抜擢される。出演者全員に素人を登用し、ドキュメンタリーとフィクションの新しい融合にチャレンジし、数分程度の場面は撮り終えていた。しかし、最終的に精神を病んだとの理由で監督を解雇される結果になり、またしてもハリウッド進出は失敗に終わる。後に深作欣二と舛田利雄が代役として監督に抜擢されるが、役者は最終的にプロの俳優を起用。完成作は平凡なアクション映画になっていた。実際に黒澤監督が撮っていたら、とてつもない戦争映画になっていたかもしれぬ。 相次ぐ製作中止が心に病んだためかどうかはわからないが、黒澤はこの時期自殺未遂事件を起こす。そんな傷心の時期にも、意気軒昂に山本周五郎原作「どら平太」を黒澤、市川崑、木下恵介、小林正樹の日本を代表する世界的巨匠4人が共同で監督すると発表。それぞれが得意な場面を分担して1本の映画を作るという世界でも前代未聞の試みに、4人の鼻息は荒かった。しかし、妥協しない4人が分担するのはどだい無理な話で、結局最終的にお流れになった(後に役所広司主演、市川崑監督で映画化)。1975年には日米合作で「IF」という作品が企画されていた。この作品のメイキングを製作する予定だった熊井啓監督によると、戦国時代のある場所で西洋人が武将となり、戦乱の世に巻き込まれ死んでいくというストーリーで、宗教が重要なモチーフになっていたという。主役にはハリウッドのスターを起用し、壮大な大作になる予定だった。タイトルじゃないが、“IF”もし、この作品が作られていたらアカデミー賞をも総なめにする傑作ができていたかも知れない。それ以外にも、三船敏郎が主演するはずだった「デルスウザーラ」「乱」や勝新太郎主演の「影武者」、ジーン・ハックマンが出る予定だった「八月の狂詩曲」など個人的に観たかった作品が多々あった。 同じく日本を代表する巨匠、大島渚が監督する予定だった「アメリカン・ラヴァーズ」(1991年)も観たかった。戦前のハリウッドで一世を風靡した日本人俳優の早川雪洲と伝説の二枚目俳優ルドルフ・ヴァレンチノの関係を描いたこの作品は、主演の雪洲に坂本龍一、ヴァレンチノにはまだブレイク前のアントニオ・バンデラスを起用。以前ビートたけしをキャスティングして話題となったように、大島のキャスティングに対する先見の確かさも見事だった。スタッフも決まり、キャストのテスト撮影も行われたが、クランクイン直前でプロデューサーのジェレミー・トーマス(「ラストエンペラー」の製作者)が破産。製作費100億円近い大作をハンドリングするのが難しい状況となり、製作延期に追い込まれた。その後も製作開始の噂が流れたが、現在の大島監督は脳梗塞が悪化し、とても映画製作に従事できる状況ではなく、多分この作品は永久に作られることなく葬り去られるだろう。歴史に“もし”はないが、これらの作品がもし予定通り作られていたら、確実に日本はおろか世界の映画の歴史は変わっていたかも知れないと考えずにはいられない。巨匠と呼ばれる監督も、そのフィルモグラフィには血と涙を流し続けた死屍累々の道程を歩んで来たのだと改めて実感してしまう。 |
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