1976年、一本の日本映画が全世界で大反響を呼んだ。その理由は、あまりにも過激な性描写にある。ポルノ先進国のアメリカでも税関でストップがかかったというほどのこの映画が“かたーい”お国柄だった当時の日本で撮れたのには、大島渚監督による秘策があったからだ。監督はまず製作資金をフランスから集め、フィルムも当地から輸出。日本で撮影したフィルムは再びフランスに運び、編集と録音といったポストプロダクションはすべてフランスで行うという奇策に出たのだ。つまり、スタッフもキャストもすべて日本人で、撮影も日本で行われたのだが、映画は純然たるフランス映画として製作したのだ。そのため、法律の厳しい日本でも、堂々とポルノを撮ることができたのだ。当時、当局はその腹立ち紛れからか、映画のスチール写真集をわいせつ罪だとして、その出版責任者と大島渚監督を逮捕するという暴挙に出た。最終的に無罪が確定するが、映画そのものは検閲によりズタズタにされたものが公開された。 私は日本版は観ていなかったのだが、数年前シアトルに旅行した際、ユニバーシティー・ディストリクトで完全版を観る機会を得た。確かに激しい性描写だが、「キャー、イヤラシイ」という気分にはまったくならず、感動してしまった。この映画「愛のコリーダ」が今年リバイバル公開され、最近ビデオ化された。限りなく完全な形だと大島監督のお墨付きなので、ぜひ観てほしい。「朝まで生テレビ」で怒鳴っていた監督も、数十年前はこんな素晴らしい映画を撮っていたのだよと、私は若者に教えてあげたいのだ。 この映画は昭和初期、愛人の性器を切断して懐に隠しながら逃亡生活を送っていた実在の人物「阿部定」と、その愛人「吉蔵(つまり切られた方である)」の愛と肉欲を描いている。題名の「コリーダ」とは、スペイン語で闘牛を意味するのだそうだ。まさに闘牛のように激しく愛を貫いた男女の物語である。作品の90%近くを性交シーンが占めており、中にはえげつないシーンもある。例えば、定に促されて吉蔵が老婆と性交するシーンがある。老いても性を求め、やがて失禁するその老女の醜態を、性を追求した女のなれの果てと感じたのだろうか、二人は直後初めてお互いの過去や死について語り始める。えげつないが、ラストにつながるとても意味のある重要なシーンなのだ。 もう一つ印象深いシーンは、床屋から帰る吉蔵が軍隊とすれ違う場面。ただすれ違うだけのシーンだが、国のために死んでいく兵隊たちと、命を懸けて女を愛する吉蔵が見事に対比され、国なんかのために死ぬより女のために死ぬ方がずっといいんだという主張が込められた名シーンであった。「日本の夜と霧」や「儀式」など、政治をテーマに過激な映画を撮ってきた大島監督らしい場面だが、インタビューによると、もともとカットするつもりだったとか。監督の本当の狙いは踏み込んだ男女の愛情を描き切ることのみにあったのかもしれない。 お互いの首を絞めて快感を得るなど、だんだんエスカレートしていく二人。その中で、定が見る夢も興味深い。大きな競技場で吉蔵とかくれんぼをするのだが、ふと気が付くと吉蔵が消えている。そんなフロイト的な表現を挿入し、吉蔵を独占したいがために凶行に至ったのだと表現してみせる所はさすが大島監督である。そういえば、この映画の中での二人の会話といえば、ほとんどが喘ぎ声と痴話喧嘩なのだが、全編を通して観ると、とてつもなく知的で哲学的映画だった。大島監督はこの定と吉蔵をこよなく愛して作ったのだろう。これだけ人を激しく愛した女、そしてそれを受け入れた男、文字どおり最高のラブ・ストーリーである。 この映画は1976年のカンヌ映画祭で絶賛され、全世界で大ヒットとなった。この作品で定を見事に演じた松田映子は世界中で脚光を浴び、フランス映画に主演したりしていたが、この種の映画に出たため世間から好奇の目を浴びたらしい。その後、何度も結婚に失敗したと週刊誌に書いてあった。映画のモデルとなった人物も現在96歳で在名中らしい。どちらも消息は不明である。 |
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