2011年02月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎
シェラネバダの稜線から吹き下ろす木枯らしは、時に目を開けていられない砂嵐を起こし、冬には激しい地吹雪となって広い麓の廃墟に舞う
60余年前、1万人以上の日系人が居住したこの地に
感動のショート・ムービー
2010年に日系アメリカ人が登場するドラマと映画が公開された。橋田寿賀子脚本、計11時間のTVドラマ「99年の愛 Japanese Americans」と、すずきじゅんいち監督の映画「442日系部隊、英題:442 Live with Honor, Die with Dignity」である。この記事を書いている現在、まだそのどちらも見ていない隊長だが、昨年の晩秋のある日、22分のショート・ムービーに心を動かされた。それは国立公園局が作ったドキュメンタリー作品※1で、見た場所はカリフォルニア州のほぼ真ん中にあるマンザナー国定史跡(Manzanar National Historic Site)、ビジター・センター内のミニ・シアターである。※2
米南西部へのロング・キャラバンの帰路、デスバレー国立公園で丸1日過ごしてオレゴンへ帰る予定だったが、買った地図でたまたま「Manzanar National Historic Site」という文字が目に入った。予備知識がなかったわけではないが、正直なところ何の期待も持たなかった。「石碑でもあるのかな?ちょっと寄ってみるか」と、ルート395から外れ、このマンザナー国定史跡を訪れ、そして…そのムービーを見て胸が詰まった。
館内の展示を見た後は、セルフ・ガイド・ツアー※3で、かつての広い敷地を順々に見て回る。ちょっとのつもりが結局5時間、隊長はこの史跡にいた。西にシェラネバダ山脈、東にインヨー山脈がそびえる広い谷あいの地オーエンズ・バレー、簡単に行ける場所ではない。※4 けれどもアメリカに住む日本人ならば、この史跡を訪れることを隊長は強く勧める。この地に立つと、史実が繰り広げられた現場だけで感じられる、一種のオーラのような風が心を強く揺らすのだ。テーマ・パークのような楽しい快適な場所ではない。それでも、魂がいかりを打つように、しっかりと自分の根っこのひとつを歴史の1ページに張ることができる。その旅はいつの時代であろうと、アメリカに住む日系人にとってはきっと心の大地の一部となるだろう。
風の谷に出現した“日本区”
アメリカへの日系移民の歴史は明治維新直後から始まる。明治から昭和初期までのその苦難の道のりは、それだけで大きな物語となるのだが、ここでは割愛する。
彼らが営々と築き、彼女達が黙々と培ってきた家族、コミュニティー、仕事、社会生活…それらのすべてが1941年12月のパール・ハーバー奇襲攻撃によって失われてしまう。1942年2月には西海岸に住む日系人12万人全員が、キャンプ “War Relocation Center”に収容されることが政府決定。12万人のうち3分の2は、それぞれアメリカで生まれた2世か市民権を持つ「アメリカ国民」だったが、「日系」というだけで市民権は否定された。
告知後1週間足らずのうちに、西海岸のすべての日系人は、家と家財、商店や工場、仕事の一切合切(ペットも)を処分せねばならなかった。旅行カバンだけを携え、赤ちゃんから老人までが各地の一時集合所に集められ、内陸の10カ所に造られた収容所に送られた。※5 マンザナー日系人収容所は、そのひとつである。
有刺鉄線が厳重に周囲を取り囲み、看視兵と重機関銃がにらむ8カ所の監視塔に囲まれた500エーカーの居住区に、同年9月までに1万人以上の日系人が入所した。いろいろな施設が急造されたが、プライバシーも自由もなく、不安と悲観が渦巻いていた。42年12月には死傷者12人を出す暴動も起きる。
当然さまざまな軋轢はあるのだが、収容所の日系人達は理不尽な環境に耐え、日本人らしく知恵と力を出し合い、勤勉にこの地なりの生活を築いていく。子供達の遊び場や学校、教会、寺院も自分達の手で作った。野球を始めとするスポーツも行われ、新聞も発行される。皆それぞれに手に職や一芸を持つ人達なので、建物の建築や工事、農場で野菜を育てたり、庭園を築いたりした。戦場で使う迷彩ネット(カモフラージュ)の縫製工場で働く人もあった。ロサンゼルスの写真家、宮武東洋は収容された時、密かにレンズとフィルムを持ち込み、当初、規則に背いてカメラを作り写真を撮っていたが、やがてその腕を認められ、収容所の公式撮影員として所内のさまざまなシーンを写真に残した。その残された写真から収容者の人々の日常(=努力する姿)が偲ばれる。
1943年2月には、ハワイや本土の各収容所から招集した日系の青年達だけで、アメリカ陸軍第442連隊が結成された。彼らは北アフリカ、フランス、イタリア、ドイツと、ヨーロッパ戦線の激戦地を転戦。この日系人部隊は、Go for Broke(当たって砕けろ)を合言葉に勇敢に戦い、合衆国軍史上最強の連隊と称される。この収容所から出征し、帰らぬ兵士も多かったのである。
※1 映画のタイトルは「Remembering Manzanar」。当時の収容者達によるナレーションの、そのひと言ひと言に心が打たれる。30分毎に上映(無料)。
※2 ビジター・センターは、収容者達の手によって1944年に、収容所内に設置された高校(Manzanar High School)のオーディトリアム(体育館)として建てられた。このほかにも、所内の多くの建物が収容者達によって建てられた。
※3 来訪者が自分の車で回る3.2マイルのセルフ・ガイド・ツアー・ループ。27カ所の番号ポストが設置されているが、それぞれの見学スポットに解説パネルはないので、まずビジター・センターでパンフレットをもらってスタートしよう。ビジター・センターの書籍コーナーでは『Reflections in Three Self Guided Tours of Manzanar』という、当時の写真とイラスト、地図を多用した全45ページのガイド・ブックを販売($10)。それを見ながらコースを回ると理解がいっそう深まるし、ことに使われている写真についてはアンセル・アダムス、宮武東洋が撮ったものが多数収録された、1級の記録写真集でもある。しっかりした冊子なので良い思い出、そして土産になるだろう。
※4 ロサンゼルスの北200マイル、車で約4.5時間。ワシントン州、オレゴン州からは、ルート395を一路南下。ワシントン州境より約800マイル。
※5 カリフォルニア、アイダホ、ワイオミング、ユタ、アリゾナ、コロラド、アーカンソーの7州に計10カ所の日系人収容所が設置された。いずれも都市から遠い砂漠、平原、湿地帯の中だった。
▲収容所の周囲8カ所にこのような“Guard Tower”(監視塔)が置かれ、機関銃を携えた監視兵が常駐していた
▲当時の施設内の車道。歩くとこのアスファルトから、ある種の感慨がストレートに伝わってくる。人も疎らで静かなこの谷に1942年から1945年までの4年間、人口1万人超の街が突如現れ、消えた
▲MP(Military Police)が詰めていた検問所では、出入りする車のすべてがチェックされた。 これらの建物はカド・リョウゾウという1世の石工が築いたという
▲ビジター・センターのトイレの壁に掛かっているパネル。“You’re taking showers with strangers… or sitting down on a pot with strangers, with no partitions. You’re right out in the open. It was a bit embarrassing.”と書かれている
▲収容者が収容所内に築いた庭園の跡。石工や庭師もいたそうだ。こういった庭は収容所内、大小数カ所に造られた
▲再現された往時のバラックの中。1棟は4部屋に区切られて、20フィート四方のひと部屋に8人が起居。バラック14棟と集会所(食堂)、洗濯所、男女別のトイレ、シャワー所で1ブロックを成していた
▲当時のバラックは戦後に解体され、資材は競売。この跡地が国定史跡となった後、往時の建物の位置を示すサインが立った
▲炊事棟、病院などの公共の建物跡にはコンクリートの基礎が残っている
▲再現された往時のバラック。忠実に再建したものと、ほかの収容所に残っていた建物を移築したものがある。建物の防寒保温対策のため、外装を分厚いフェルト紙で覆っていた
■マンザナー日系人収容所史跡
カリフォルニア州、シェラネバダ山脈の東側の谷にあるマンザナー史跡は、施設の性格上、どの大都市からも遠い。それでもアメリカ在住の日本人は1度は訪れ心に刻むべき場所であろう。
www.nps.gov/manz
※以下は、本文中に登場する国立公園以外の場所
■オルガン・パイプ国定公園
「国定公園」となっているが、原生するサボテンの規模、その中を通るトレイルといい、見応えがある。ビジター・センターの展示も充実しており、国立公園クラスの自然公園である。なお、公園内を通過する道はメキシコへと通じており、その道の途中と国境はボーダー・パトロールが物々しい警備を行っている「国境の公園」である。
Organ Pipe Cactus National Monument
www.nps.gov/orpi
■フーバー・ダム
ニューディール政策のシンボルと言える1935年に完成したダム。アリゾナからネバダに向かうI-93沿いにあり、訪れる人はひきもきらない。
Hoover Dam
www.usbr.gov/lc/hooverdam
■マンザナー日系人収容所史跡
カリフォルニア州、シェラネバダ山脈の東側の谷にあるマンザナー史跡は、施設の性格上どの大都市からも遠い。しかしアメリカ在住の日本人なら、1度は訪れ心に刻むべき場所ではなかろうか。
Manzanar National Historic Site
www.nps.gov/manz
■フォート・ロック州立公園
セントラル・オレゴンの南(南オレゴンと言って良い)にある州立公園。ベンドから1時間余りの距離。
Fort Rock State Park
www.oregonstateparks.org/park_40.php
マンザナー日系人収容所(前編)2011年03月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎
ふたつの祖国の間に起きた戦争により、理不尽な境遇に置かれた十数万人の日系人達。
収容所の中では自然の激しい嵐が吹きすさび、外のアメリカ社会にも厳しい嵐が待っていた…
日系人かく戦えり
ドキュメンタリー映画「442日系部隊」のサブタイトルには「アメリカ史上最強の陸軍」とうたわれている。現在でもこの連隊に授与された勲章の数は米軍史上最多である。
彼らは勇敢だった。各地の激しい戦闘で損耗しては補充を受け、また連戦し、そしてついに連隊の死傷者数は、のべ9,846人(314%)に達した。幾度もの作戦に赴き負傷するも、傷が癒えては戦線に戻り戦う将兵もいた。ヨーロッパ戦線でのこの日系人部隊の奮戦、働きについては本、映画など、さまざまな方面で繰り返し紹介されている。(Information参照)
開戦時、日系人を強制収容する法案にサインしたF・ルーズベルト大統領は、終戦間際に世を去る。そして新たに就任したH・トルーマン大統領は、凱旋した442連隊を自ら出迎え、こう賛辞を述べた。「諸君は敵だけでなく偏見とも戦い、勝ったのだ」
1945年8月、日本は降伏し、同年11月にマンザナー日系人収容所は閉鎖された。だが戦争が終わり、西部の各地に戻っていく日系人を待っていたのは激しい日本人排斥の嵐。ゼロどころかマイナスからの再出発という過酷な現実であった。しかし、ここでも彼らは自分達の力で本当の自由と平等を取り戻すために粘り強く戦ってきた。
マンザナー収容所の時代から半世紀が経った1988年8月、合衆国大統領ーロナルド・レーガンーは太平洋戦争時の日系人強制収容は誤りであったと公式に認め謝罪。当時の収容者に賠償を行った。「強制収容」という歴史の不条理も従容として受け入れ、その中でも前向きに生きた日系人達、勇敢に戦った442連隊の将兵達、戦後の逆境に粘り強くあらがって信念を貫いた人達、彼らは寡黙だ。語ることより行いで示してきた人達だった。その心のマグマを描く力は隊長にはない。マンザナーの廃墟に立ち、当時も今も吹く、強い風と史実の重みを感じるだけである。この地に立てば日本人誰しもが何かを感じるだろう。
時代の波、世代の波
セルフ・ガイド・ツアー・ループの後半で、収容所の西の外れにある墓地を訪れる。シェラネバダ山脈の主稜線を一望できるその山麓に、墓地と慰霊塔がある。ゆっくり墓地をひと回り歩いて、隊長は慰霊塔の前に進み、手を合わせこうべを垂れた。跡地を見て回り、さまざまな思いが心に浮かんでいた。20世紀という時代のこと、自由、平等、人種、世界のこと。ここで過ごした1万人以上の人達の思い。ここに来てここで死に、今でもこの砂礫の下に眠る人達の思い。半世紀の時の流れ…そして想いは隊長自身とつながるふたりの男ー父と息子ーのことへと巡っていった。
隊長の父は満州で応召し終戦を迎え、3年間シベリアで抑留された。強制労働と大病と3度のシベリアの冬を耐えて、ナホトカから復員船で舞鶴に帰って来た。父はその当時のことを話さない。抑留中のこと(収容所の生活やソ連のことなど)は、誰から聞かれても表情をなくし、低い声で短い言葉を発するだけ。それが答えだった。そしてもうひとりは、まもなくアフガンへ赴くことになる海兵隊員の息子のこと。「どうか守ってください」と手を合わせ、ただただ願った。一体、平和な時代、平和な世代とは何なのだろう。波とうたかたのようなものなのか?つらい時代のことを人は話したくはない、思い出したくはないはずだ。うたかたの世代の自分が、偶然この場所に来てそのことに気付き、少しでも知ることにはきっと意味があるのだろう。
ほかに慰霊塔を訪れる人もいなかったので、ことのほかそこに長く佇んでいたと思う。11月半ばの午後、日が傾き、稜線に雪煙が舞う。静けさの中で風に乗ってシャッター音が聞こえた。見なくてもわかる。オート・ルートを私の前になり後になりして撮影して歩いてきた、ひとりのアメリカ青年の一眼レフだ。隊長は思った。「そうだ、撮ってくれ。写るものならこの心の中まで写し出して欲しい」と。
▲この史跡は主にカリフォルニア在住の日系人達の運動により1972年にカリフォルニア州史跡として登録された。1992年に国の史跡に指定され、2004年より国定史跡としてビジター・センターをオープン
▲マンザナー日系人収容所の西の外れにある墓地と慰霊塔。マンザナー日系人収容所がこの地に置かれた3年間で、135名が亡くなった。多くは老人と生後間もない赤ちゃんで、そのうちの15名がここに埋葬。戦後、9名の遺体は縁者により引き取られたが、身寄りのない6体は現在もこの場所に眠っている
▲戦時用の迷彩ネットを造る縫製工場があった跡地。多くの女性収容者達が働いた
▲左奥に見えるのが、再現された当時のバラック。建物のあちこちからすきま風が吹き込んだ。この谷は風が強く、砂嵐が吹くとベッドの上には一面に砂が積もったという
▲ダンテスビューよりデスバレーを俯瞰する。マンザナー国定史跡からデスバレーへは50マイル程の距離
▲マンザナー国定史跡の北100マイル余りのルート395号線のすぐ西に、ヨセミテ国立公園があり、タイオガ・ロードを通り公園を横断することができる。秋の黄葉の景色が素晴らしい
▲マンザナー国定史跡のあるシェラネバダ山脈の東側は厳しい気候だが、北カリフォルニアの透徹した空気が満ちた美しい景色が続いている。しかしそれは行動の「自由」あってのもの
■マンザナー日系人収容所史跡
この国定史跡を管理運営する国立公園局のウェブサイト。
Manzanar National Historic Site
www.nps.gov/manz
■442連隊について
2010年に公開された映画のことがあってか、日系442連隊に関する情報は、本やウェブサイトでもかなり広く入手することができる。数あるウェブサイトの中でジャーナリストの感性が光るのが、サンフランシスコ日本語補習校サンノゼ中高部の生徒が作成したウェブサイト。サンノゼに住む、実際に収容所体験を持つ日系1世の方々にインタビューしている。収容所のことも442連隊のことも簡潔だが、いちばん新しい世代の言葉で紡がれている。その真っすぐな姿勢は一見の価値あり(日本語、英語)。
History of Japanese American
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10060
■退役後の442連隊のウェブサイト
主要な作戦のジャーナルなど、当事者ならではの情報が整理されているウェブサイト。一部は工事中ではあるが、当時の写真も多用されており読み応えあり(英語)。
442nd Regimental Combat Team
www.the442.org
■リンダ・タムラ著、中野慶之訳『フッドリバーの一世たち』
太平洋戦争を挟み20世紀の初頭から戦後にかけてオレゴン州フッドリバーに生きた日系人達のことを日系3世の著者が書いた1996年刊行の本。
■ノースウエスト自然探訪 Caravan#22
桃源郷の谷・フッドリバー
www.youmaga.com/odekake/eco/2004_4.php
Reiichiro Kosugi 1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。 |
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