2011年09月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎
自然にはいろんな音がある。文と写真でそれを伝えるのは難しいが
読む人のイマジネーションを弦楽器の胴として、
隊長は弦をつま弾いてみようと思う
久遠無音の天空と大気圏
毎夜、万人の頭上に星空が広がるのに、悲しきかな現代人は遠くへ出掛けた時くらいしか夜空を見上げない。天の川、たくさんの星座、流れ星、人工衛星などがきらめきの音を発していたら、忙しい我々も立ち止まり、しばし夜空を見上げるかもしれない。はるか遠く真空の宇宙空間での一大ページェントは華やかに、そしてすべて静寂に繰り広げられる。オーロラもそうだ。全く音がなく、頭上の全天をあれだけ縦横無尽に、時に激しく奔放に動くことが不思議に思える。聞こえるのは自分と周囲の人の乱れた息づかいと、思わず上がる歓声だ。「音とは空気あってのもの。つまり大気圏のことか」と妙に納得する。※1
世にとどろく大きな音の筆頭は雷だろう。シアトルやポートランドで雷鳴を聞くことは少ない。熱帯低気圧(ハリケーン、台風)も来ないし、スコールもまずない。竜巻(トルネード)もほとんど起きない。冬の長雨なんぞは情緒的なささやく音でしかない。大気のとどろきとはあまり縁のない、いたって穏やかな米北西部の大気圏である。
地の音
地球そのものが発する大きな音というのは、土砂崩れや地滑り、火山の噴火だろう。地鳴り、山鳴りという言葉があるが、隊長は1度も聞いたことがない。体感地震も伴って、身も凍るような恐ろしい響きだろうと想像する。
山に登っていると落石の音にハッとすることがある。文字通り身に降り掛かる危険なので、本能的に音のほうをパッと向くわけだが、遠くで大きな石や岩が落ち山肌に当たって砕け散る時は、まず「パリパリ」という乾いた音が空中を飛んでくる。何千メートルもある長大な斜面の上のほうで豆粒のように見えた落石が、こちらに近付くにつれどんどん大きくなり、タンスか軽自動車ほどの大きな岩が「ブーン」と唸りをあげて回転しながら自分の横を落ちていき、肝をつぶしたことがある。落石も小石だと加速度もつき目で捉えられなくなる。空中に「ピュー」と音がして、斜面に「パシッ、パシッ」と小さな土煙が上がる。狙撃されたらおそらくこんな風なんだろうと思う。
中央アジアなどの砂漠では砂嵐が吹く。テントの中にいると「パツパツパツ」と砂礫がシートに当たる音がする。日本や米北西部の森林地帯ではまず聞かない地の音だ。
氷河の音
空、陸、海から氷河を見るツアーがたくさんある。それらは文字通り「氷の河」として流れており、山腹に迫り出した懸垂氷河や海に落ち込む氷河の舌端では、時折巨大な氷塊が崩落する。その時「バリバリ……ドドーン」と凄まじく大きな音が響く。視覚としては稲妻と氷塊の落下の違いがあるものの、大きさも音もほとんど雷に近い。
アラスカでは船での氷河観光ツアーがいくつも出ている。1度そういう船に乗って近くで氷河を見たいという人に、隊長の経験からひとつアドバイスしたい。
「海から氷河を見るなら船は小さいほど良い」。船が小さければ小さいほど氷河が動いていることをより実感できるのだ。その理由は、氷河舌端の海面には大小無数の氷塊が漂っているが、船が小さいほどこれを避け氷河に近付くことができる。さらに、大型の船はエンジンを止めず、停船中ずっとアイドリングしており、鳥の声さえも聞こえない。小さな船は定位置に着いたらエンジンを止めるので、次の瞬間から海と氷河と空の静謐の世界に人々は漂っている。かすかな物音すらこだまする静けさだ。すると動かぬ巨大な氷の塊だった氷河が実はあっちで「パラパラッ……バシャ!」こっちで「チリチリ……チョボッ!」。音のするほうを見ると、氷河の壁のあちこちから小さな氷のかけらがポロポロと落ちていることがわかる。
そんな小さな崩れは大きな崩壊の前触れであることも多いので、その辺りを見ていると、やがて「バリバリッ……ズドドッ」と大崩落が起こり、それを見逃さずカメラを構えることができるのだ。そして実感はその後にも続く。大崩落で起きた波が船まで届くと、船はゆっくり上下に揺らぐ。小型船では船長とじかに話ができる。彼らはビジネス抜きにアラスカの自然が大好きな連中だ。その解説は立て板に水の大型船のそれとはひと味もふた味も違う。
静寂は懐石料理の器にも似て……
キャンバスの四辺四隅まで何がしかの色で塗りこめる西洋絵画に対し、東洋の絵は余白を存分に残し、あるいは使い、対象物を際立たせる。料理ではとにかく焼くか煮るかし、さらに人が味を付けなければ料理ではないという洋食に対し、素材そのものの味を生かすことを良しとする和食……洋の東西での視覚や味覚を牽強付会すると、そういう図式になるのだろうか。聴覚ではどうだろう? よく言われる蝉の声や虫の音を、季節の情緒ととるか、はたまた「騒音」ととるか? 山や森の中、あるいは海辺に身を置いて「静寂」に包まれる時、それを「侘び」「寂び」として味わえる人と、退屈(苦痛?)に感じる人が確かにいる。それは、洋の東西と言うより、その人が生まれ育った環境と時代によるものが大きいように思える。
その明かりで本が読めるほど満天の星を見上げた時や、全天を乱舞するオーロラに息もできず圧倒された時に、何の物音もしないことこそが最上だ。また、まずそこに「静寂」があって、地球や生き物が息づくかすかな物音で、急にいきいきとした自然を感ずる場面もある。あるいは、潮騒、谷川のせせらぎ、蛙の合唱、蝉時雨、風のもがり声、雨の音、虫の羽音、鳥のさえずりなどは、上質のBGMとして目に映る自然の景色に彩りを添えてくれる。
静寂とはゼロ(=単なる無音)ではなく豊饒な自然の極上の器だと隊長は思っている。
(音と静寂 後編「水、生き物、人の音」に続く)
※1 オーロラの話
Caravan #19「究極の“観光”アラスカでオーロラを観る」
https://www.youmaga.com/odekake/eco/2004_1.php
※2 氷河の話
Caravan #24「ノースウエスト氷河三昧」
https://www.youmaga.com/odekake/eco/2004_6.php
▲氷河の上で寝ていると耳で聴くというより背中で氷河の音を「ビシッ」「バシッ」「ヅン」と聴く
▲1980年、セントへレンズ大噴火の時は麓で大きな地響きがしたという。この写真は噴煙ではなく雲
▲風そのものはどんなに強く吹いても不気味なほど無音だ。速い流れの空気や雪片が、木や建物や電線、岩角、あるいは自分の耳やフードに当たる音で私達は風を知る
▲オレゴン・デューンを歩く。風で足元の砂が飛ばされ「サラサラ」という音を立てて流れていく
▲氷河の先端で船の機関を止め「どうだい?」と笑顔の船長(中央)。乗客は右舷に寄り、船体が氷河に向いて傾いている。キーナイ・フィヨルド国立公園にて
▲小さな船は器用に流氷を避けながら氷河に近付いていく。氷河の末端が崩落する時は「バリバリ」と雷のような音を立てる
▲黒い排気ガスとエンジン音を残し、氷河から離れる高速観光船。ガスタービン・エンジンのため、停船中もアイドリングしている
▲アラスカ、フェアバンクス郊外で見たオーロラ。実際は揺れ動いているのだが、すべて無音で進行する。魂を激しく揺さぶられる強烈なオーロラは全天空を激しく舞うので、写真だろうが動画だろうが、到底伝えることはできない
Reiichiro Kosugi 1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。 |
コメントを書く