2012年09月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎
イチローが移籍した。2012年の熱いスポーツの夏が終わり
人々の夏にもそれぞれの「区切り」がつくだろう
かくして人も自然も時代も移り変わっていく
▲長らくイチローが守ってきた“Area 51”は彼の瞬発ダッシュとストレッチングで痛みが激しく、立ち位置の芝が張り替えられている
エールと箴言
「良かった。本当に野球に賭けているんだ」。イチロー移籍のニュースを聞いた時、まずそう思った。昨シーズンから低迷気味だった、かの野球侍の去就は気になっていた。隊長は誰であれ、何事であれ、チャレンジする人が手放しで好きだ。だから、彼が新しい境地へ挑むことに心の底から拍手を送りたい。7月23日のゲームのスタンディング・オベーションは、そういうファンの思いがこもったエールだと思う。
隊長の仕事柄、北西部の旅行関係の人達と話すことも多い。彼の移籍に際して「残念なこと」と言う人もいる。曰く「シアトルの観光はイチローで持っていた」「セイフコ球場(の野球)とパイク・プレイス・マーケットとスペース・ニードルのほかは、シアトルで見る所はないのに……」「マリナーズはイチローに代わる(日本人)スター選手をすぐ入れるべき」などなど。そういう考えこそ残念だなと隊長は思う。自分達が持っているものを知らず磨きもせず、無いものねだりをしているとしか思えない。
イチロー移籍の2日後、ANAの成田ーシアトル便が就航した。この便でシアトルに着いた乗客がシアトルを素通りし、カナディアン・ロッキーへと向かっている。知名度に頼らねばツアーの集客ができない。それは経済原則なのだろうが、あまりにふがいない。私達はこれまでいったいどういうプレゼンテーションをしてきたのだろう。当地北西部には、十二分にエンターテインできるセグメントがあるのだから、これからひとりでも、なんとしてでも巻き返しを図るぞ、と隊長は心に決めている。
ドーナツ・シティー、シアトル
アメリカ人が夏休みに行きたいスポットとして、シアトルはいつも上位に挙がっている。その理由はエメラルド・シティーの美しい都市環境だけではない。果物やグルメ・コーヒーだけでもない。オリンピック、レニア山、ノース・カスケードの3つの国立公園、セント・へレンズ火山、サンファンの美しい島々と内海などの、多様で素晴しい自然の魅力がすべて、シアトルの周囲1日圏内にあるからだ。快適な都会のホテルに連泊し、おいしいワインやビールを飲む。シーフードやコスモポリタンな料理を堪能し、さらに野球やショー、ミュージカル、コンサートなど、日が長い夏の1日を存分に楽しめる。このことは、視野をシアトルから北西部全体に広げても同様のことが言えるのだが、残念なことにまだまだ、日本からの観光客は「有名なのは何?」「シアトル(ポートランド)に何があるの?」と街(都会)のことしか思っていない。
さらに日本人にはとりわけ、有名観光地の「受け売り」癖がある。国が違えば人々の育った自然も環境も違う。感動や興味の対象が異なって当然だと思う。例えばシアトル・ポートランドからの半日観光地として、スノコルミー滝やマルトノマ滝がアメリカでは人気がある。内陸や平野に住む人達が多いこの国の人達にはそれらは新鮮だろう。だが、日本人は滝や海岸の景色に関しては(良し悪しは別にして)目が肥えている。果たしてそれぞれの滝を訪れて「きれいな景色ですね」とは言うが「素晴しい景色ですね」と何人の日本人が感動するであろう? あるいは歴史的建築物。日本の古都のそれらとはまた違う、魅力の深さを感じるだろう。
有名、国立公園、国定公園、世界遺産などのレッテルに囚われることもどうかと思う。それ以外の場所、州立公園や国有林にも見応えのある景観はそこかしこにある。ただ、名が無いだけだ。逆に「世界遺産」の国立公園という触れ込みで訪れていながら、実際には世界遺産の対象である原生景観ではなく、ただ見晴らしの良い展望台へ行って「観光地の、良い景色」を見て満足する人も多い。
何も情報が無い所へ来る人はいない。これはひとえに本当の魅力、正しい情報をこれまで流してこなかった現地の私達の責任である。まず、足元の宝の山に気付こう。自分達の感性に自信を持ち、北西部の多様な自然と、そこから生まれる風土や人々の文化をこの先、日本にどんどん情報発信していきたい。
▲ピュージェット湾から東南アラスカ・パンハンドルへと続くインサイド・パッセージの島々。ノースウエストの北へ延びる碧い回廊
▲ハリケーン・リッジにて。春に産まれた子鹿が花畑で戯れている
▲セントへレンズの山上湖スピリット・レイクにて。噴火30年後の今も倒木で埋め尽くされている湖面
▲オリンピック国立公園。ホウ・レインフォレストにて
チャンスは1回、目指すは200%
当地を訪れる日本からの観光客、あるいは訪問者は果たしてどれ位の期待値を抱いて来ているだろう。例えばグランド・キャニオンやラスベガスなどの有名観光地へ来る人の期待値に比べると、残念ながらそれは低いはずだ。その低い期待値を抱いて現地を訪れた人が、100%の満足度を得て帰ったとする。何人の人達が、またここを訪れるだろう。スノコルミー滝やマルトノマ滝をまた見に来たいと言うだろうか? なにがしかの旅行費用と休暇の日数を費やす以上、100%の満足度だったら「まあ良かった、これでシアトルは行ったし、今度はヨセミテへ行ってみたい。あるいはスペインか、エジプトか、屋久島も良いな」となるはずだ。だから、約款に書かれている旅程に対して、100%の満足を与えるだけのツアーでは駄目なのだ。200%以上の満足度を目標にせねばならない。参加者の元々の期待値が低いので200%が必ずしも高い目標とは言えないだろう。
ここで言う100%、200%は例え話なので、具体的な話をしよう。夏休みや春、秋の連休に当地を訪れた人がいるとする。日本に帰って家族や友人に、あるいは職場で「どうだった旅行?」と聞かれ「うん、良かったよ。きれいだった」と答えるのは満足度100%。言葉は自分の心からあふれ出ることはない。これが、聞かれなくとも「すっごく良かったんだよ。また行きたいな。ねえ来年一緒に行こうよ」とか「あなたも1回行ってみて。本当に良いんだよ、あのね、樹がね……」と。200%満足(=感動)した人は、期待値を超えた分の感動をどうにかしようと思うものだ。それはSNSなどへの情報発信かもしれないし、旅行資金と休暇を貯め何年か先の再訪につながるかもしれない。その時はひとりでなくほかの誰かを連れてふたりか家族かグループかもしれない。そういうことの一つひとつが当地の魅力をじかに手渡しできる情報発信力だと思う。その積み重ねが集客力だ。その機会は個々の訪問者につき1度きりである。
ここは、ダコタやネブラスカではない、見る人を感動させる景観や風土はノースウエストの随所にある。そのことに私達は自信を持って良い。ただ足元に宝の山があるのにそれを知らないだけだ。隊長には当地の十年一日の観光旅行メニューが200%の満足度(感動)を与えているとは残念ながら思えない。
▲シェラネバダ山脈の東麓を走るルート395は、ノースウエストの南へ延びる緑の回廊
イチローが教え示してくれたこと
縁あってマリナーズに入団したイチローは、11年間プレーした。チームの低迷が直接の移籍の理由ではないし、名門だから、常勝チームだからとの理由でヤンキースに入るわけでもない。移籍しただけで彼の成績が上がるわけでもない。むしろ逆境に38才の身を投げ込んで、さらなる自分への挑戦のモチベーションとしている。もちろん才能は必要だろう。その上にたゆまぬ練習があり、スーパースターはより高い目標に向かっている。
スポーツとは異なるが、ノースウエストにある世界企業群、ボーイング、マイクロソフト、アマゾン、スターバックス、ナイキ、コロンビア・スポーツなどは、寄らば大樹でノースウエストに来た企業群ではない。当地で成長したのだ。これらのことは、成長の糧は自分の内に、足元にあることを教えてくれる。繰り返しになるが地球上で当地だけにしかない自然景観や、観光地ずれしていないレイドバックな雰囲気など、良い素材は山ほどある。別の機会に各論でそれを述べたいと思う。
(2012年9月)
Reiichiro Kosugi 1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。 |
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