2004年04月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎
各地の美しい花園の中でも、隊長が「北西部の桃源郷」と呼んでいる場所がある。これからまさに花が開き、日本人なら「敷物と重箱を持参して、日がな花を愛でていたくなる」場所だそうだ。今回は、リンゴと西洋梨の郷・フッドリバーの情景と、その地に刻まれた日系一世たちの苦難のエピソードについて。
▲マウント・フッドの明るく広い北斜面。果樹園の一帯には果物の集荷、選別、加工場が点在する
春、見はるかす花のうねり
フッドリバーに来たら、まず見晴らしのいい丘に登ってみよう。幅10マイル、長さ26マイル、広く開けた緑豊かな明るい谷が広がる。遥かに青く霞むマウント・フッドの山裾は、見渡す限り白と淡いピンク色の柔らかなモザイク模様で彩られている。1,400エーカーに渡る果樹園は、桃ならぬリンゴと西洋梨の“桃源郷”。のどかな風景で、深く吸い込むと空気がうまい。
I-84からフッドリバーの街を過ぎ、Hwy.35を南に向かってすぐ左の尾根の上にある展望台、その名も『パノラマ・ポイント』からの眺めは特に素晴らしい。南にマウント・フッド、コロンビア河を挟んで北にはマウント・アダムスも眺められる。全長18マイルあまり、川の名前でもある“フッドリバー”はマウント・フッドの北斜面を流れ、コロンビア河へと注いでいる。
4月の中旬から下旬にかけて、この谷に広がるリンゴ、梨、桃、チェリーが次々と花をつける。毎年ちょうどその時期に合わせてフェスティバルも開催される。
夏、大河で遊ぶ
コロンビア河の中流に位置するフッドリバーは、世界的に有名なウインドサーフィンのメッカ。コロンビア河の穏やかな川面が広がり、夏には西風、冬には東風と、年間を通じて最適な風が吹き、ウインドサーフィンに絶好の条件だからである。さらに河の周りの山や緑の美しい環境、夏の好天が続くのも魅力のひとつだろう。
フッドリバーの街にはウインドサーフィンのメーカー、大型専門店、レンタル・ショップやスクールが軒を連ねている。世界中からウインドサーファーたちが集まり、国際的な大会も開かれる。
毎年レイバー・デーには『Columbia River Cross Channel Swim』というイベントが開催される。ワシントン州側からオレゴン州側に向かってコロンビア河を泳いで横断するというもので、川の流れがあるので直線にすると1.1マイル(2km弱)を斜めに泳ぐことになる。参加者はフッドリバーの桟橋から外輪船に乗り込み、ワシントン州側の岸部へ向かう。そして外輪船のデッキから10人ずつのグループになって川に飛び込み、泳ぎ始める。応援する家族は到着予定地点でタオルを持ってチャレンジャーたちを見守る。小学生からお年寄りまで500人以上が参加し、60年も続いているイベントだ。
秋、豊かな実り
フッドリバーの谷一面の美しい春の花は、夏から秋にかけて実を結ぶ。冷涼な空気と夏の太陽の光を存分に浴びた果物や野菜は、どれもおいしく熟れていく。季節を問わず、スーパーマーケットにさまざまなものが並ぶこのご時世。私たちが忘れている言葉、いわゆる“旬”なるものがここにある。
イチゴは6月初旬から、そのほかのベリー類も次々と実り、その後チェリーが赤い実をつける。6月中旬にはアンズ、7月には桃、やがてさまざまな野菜が収穫の時を迎える。9月に入ると朝夕の冷え込みがリンゴと梨に甘みを溜め与え、その実をどんどんおいしくする。
フッドリバーの谷では9~10月にかけて、豊穣の秋を満喫する各種イベントや収穫祭が行われる。「花より団子」ならぬ「花も団子も」という方は、秋に新鮮な果物や野菜を仕入れにここを再訪しなければならないだろう。
『フッドリバーの一世たち』
豊かでのどかな桃源郷の景色だが、じつは自然にできたものではないことをご存じだろうか? 今ある美しい風景の影には、日本人一世たちの大変な苦労があったという史実を1冊の本が教えてくれる。フッドリバー生まれの日系三世、リンダ・タムラ氏が書いた『フッドリバーの一世たち』だ。
同書によると、アメリカへの日本人の移民は1890年代の終わり(明治時代の後半)から大正時代まで続いた。日本の農村の人口余剰、アメリカの産業化への労働力不足という両国の利害が合致したのだ。日本政府と各府県は失業対策として移民を奨励し、アメリカの政府はこれを受け入れていく。
移民たちの多くはカリフォルニア州とワシントン州で肉体労働の仕事を得、フッドリバーでも鉄道建設、製材、農業に就く機会があった。労働は激しく、賃金も安かったが、日本人労働者たちの多くは契約期間が終わった後もこの地に残り、農場で働こうと思った。渓谷が美しく、日本の田園風景に似たこの地に惹かれたからだ。
一世たちは乏しい収入の中で貯金をし、やがてまだ整地されていない森林、沼地、潅木地帯を少しずつ購入し始める。あるいは賃金の代わりにそのような土地を受け取った。そして、彼らは狭く痩せた土地を根気強く果樹園に造り変えていった。最小の資本で最大の労働効果を上げるため、彼らは農機具を共有した。果物の若木の間に下草を生やさぬよう、また、いち早く現金収入を得られるように、木の下にイチゴやアスパラガスを栽培するなどの工夫を重ね、一家総出で休みなく働いた。そこには言い尽くせぬ苦労があった。一世にとってフッドリバー渓谷は、文字通り“一所懸命”の場であった(自分達の領地を命がけで守って生活の拠りどころにした“一所懸命”が、一生懸命の語源)。
1910年(明治43年)までにこの狭い流域に入植した日本人一世は468人。彼らは経済的、社会的に支援し合い、強い共同社会を作った。30年後の1940年にはフッドリバー郡のアスパラガス生産量の90%、イチゴの80%、西洋梨の35%、そしてリンゴの20%を日本人が生産するまでになる。
しかし、翌1941年。日本軍のパールハーバー奇襲攻撃が、この地で一世たちが築き上げたすべてを崩し去ってしまう。日米開戦後、西海岸に居住する一世とアメリカで生まれた彼らの子供たちは、すべて米国政府によって強制収容所に移され、鉄条網に囲まれて過ごすことになる。二世の青年たちはその中から兵役に赴き、二重の意味で過酷な現実と真っ向から戦った(右の関連スポット参照)。1945年に戦争が終わり、収容されていた日系人は自宅に戻ることを許される。が、家屋や果樹園、農地は荒れ、あるいは人手に渡り、家財道具は持ち去られていた。開戦前フッドリバーには462人の日本人がいたが、強制収容から戻ってきたのはわずか186人。しかも、そこでは日本人への激しい排斥運動が彼らを待ち構えていた。それゆえ戦後に農地を手放した者も多い。
多くの商店は彼らに物を売ることを拒んだが、その一方でアメリカの良心に基づく信念のある人たちもいた。一世たちは声高な主張はせず、かつてそうしてきたように恬淡としていた。入植した当時と同様、共同社会から受け入れられるように再び努力を始めたのだ。崩れた石垣を黙々と積むように……。
Information
■イベント
Hood River Valley Blossom Festival
4月17日(土)・18日(日)
今年で50回目を迎えるイベントで、ワイナリーのオープンハウスや試飲、クラフト・ショー、アンティークの販売、キルト・ショーなど、さまざまな催し物が企画されている。
405 Portway Ave., Hood River, OR
11-800-366-3530 ウェブサイト:www.hoodriver.org
■The Fruit Loop
フッドリバーにある20カ所の果樹園を巡る観光ドライブ・ルート(約30マイル)。ほとんどの農園は収穫期の9~11月にかけてフルーツ・スタンド(即売所)をオープンし、U-Pickもある。アップル・サイダーやジャム、ドライフルーツ、ドライフラワーなどを作って通年営業している農園もあるので、出かける際はウェブサイトなどで調べてみよう。
Kenwood Dr., Hood River, ORにある農園を出発し、Hood River、
DukesValley、 Mt.Hoodなどを回る。
1541-386-7697 ウェブサイト:www.hoodriverfruitloop.com
(フルーツ・ループの主な果樹園)
●Rasmussen Farms
花の栽培から、コーン・メイズ(とうもろこし畑の迷路)まで、幅広い作物を手がけ、イベントも多い。
3020 Thomsen Rd., Hood River, OR 1541-386-4622
●Kiyokawa Family Orchards
日系人家族が経営する果樹園。50種を超えるリンゴには日本産もあり、梨もある。U-Pickもできる。
8129 Clear Creek Rd., Parkdale, OR 1541-352-7115
●Mt. Hood Organic Farm & Garden Cottage
1989年より有機栽培で果物を作ってきた果樹園。可愛いらしいコテージを併設し、宿泊もできる。
7130 Smullin Rd., Mt. Hood, OR 1541-352-7492
■本
『フッドリバー』の一世たち
リンダ・タムラ(ウィラメット大学教授)著 / 中野慶之訳・編(1996年メイナード出版)
「フッドリバーに入植した日本人移民の肉声による歴史」というサブ・タイトルが示すように、この地に入植した日系一世たちの生い立ち、入植するに至った経緯、その後の生活、結婚、子育て、現地社会との関係などを彼らの肉声から綴った記録書。
原著は学術研究図書で、目的は見聞きして得たフッドリバーの日本人一世たちの本質と体験を伝えることであった(明治人の彼らは自らの主張をほとんどしなかった)。非情な時代のさまざまなエピソードが感情を抑えた筆致で淡々と記述されている。
■関連スポット
米陸軍第442連隊の石碑
ポートランドのウィラメット川沿いにあるウォーターフロント・パークに第442連隊を讃える小さい石碑が建っている。強制収容所から志願した日系二世たちで編成された連隊で、欧州戦線で“Go for Broke(当たって砕けろ)”を合言葉に7つの作戦に参加した。
大戦中の死傷者数9,486人、戦死者600人。死傷率は当初兵力の300%以上(一度ならず何度も負傷した者がいた)。この連隊はアメリカ軍史上最多の勲章を贈られている。
Reiichiro Kosugi 1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。 エコ・キャラバン写真サイト:http://c2c-1.rocketbeach.com/ ̄photocaravan |
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