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人間史のone-way/オレゴン・トレイル

アメリカ・ノースウエスト自然探訪2006年02月号掲載| 文・写真/小杉礼一郎

「夕陽の果てに我々の新天地がある」。その思いで数十万の人々が2,200マイルの荒野を西に向かって歩いた。19世紀半ばのアメリカ、”On to Oregon!”の言葉には魔性の響きがこもっていたのである。

西へ動く「西部」

“Country road, take me home, to the place I belong …” ジョン・デンバーの「カントリーロード」で歌われている場所はどの辺りだろう?と調べたことがある。コロラド?ワイオミング?歌の出だしでウエスト・バージニア(東部)だと言っているのに、ずっと西部だと思っていた。歌の場面のブルーリッジ・マウンテン、シェナンドー・リバーはいずれもワシントンDCのすぐそばだ。え?いかにも西部風の歌じゃないか?と思う向きも多いだろう。そう。これは「西部」を歌った歌だ。ただし、それはアメリカ建国当初の13州の国土から見たもので、当時はアパラチアン山脈を越えるとそこから西が未開の「西部」だったのである。

フェリー・ボート
▲アパラチアン山脈にあるシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)。尾根筋を通るブルーリッジ・スカイライン(Blueridge Skyline)は、気持ちの良いシーニック・ドライブ。ワシントンDCからの日帰りコースである。アメリカ建国当時の「西部」はここから始まった


のちにその西部は「中西部(Midwest)」と読み替えられるようになり、「次の『西部』」はミシシッピー以西からロッキー山脈までに移る。つまりルイジアナ割譲でアメリカがフランスから譲り受けた領土である。さらに時代を下り19世紀に入ると「新『西部』」はさらにロッキー以西の太平洋岸まで。つまり今の西海岸までを指すようになった。このように「西部」を指す土地は時代と共に西へ拡張してきたのである

「オレゴンへ!」

フェリー・ボート
▲オレゴン・トレイルそのものは、“原野の踏み跡”程度のものであるが、各地でかすかに残っているオリジナルのルートが現在まで保存されている。この写真の場所はイースタン・オレゴンのフラッグ・マウンテン(Flag Mountain)。丘の山麓を通る現存するオレゴン・トレイルを含む約2.5マイルのセルフ・ガイデッド・トレイルは、訪れる人をそのまま当時のオレゴン・トレイルへとタイムスリップさせる
フェリー・ボート
▲ワゴンの中はミニバンほどの広さである。幌に使われたキャンバス地を使って作られたズボンが丈夫だということで次第に人々の間に広まり、やがて今のジーンズとなった


西部の実像

オレゴン・トレイルを語る場面に欠くことのできないもののひとつ「幌馬車」。木の箱の上に、幌と4つの車輪を付けたワゴンである。このワゴンは実際には馬ではなく牛が曳いた。牛は安く、辛抱強く、おとなしく、扱いやすい。いざとなると食糧にもなる。何より牛は馬が食べないヨモギ(sage-bush)など、長い道中の砂漠に生える草を食べる。荒野の長旅でワゴンを曳くのに牛は最適だった。しかしこのワゴンを日本語で「ホロギュウシャ」と言うとなんとも語呂が悪い。間延びする。実際、牛歩と言われるように歩くスピードはきわめて遅かった。ワゴンは幅4フィート(1.2メートル)、長さ12フィート(3.6メートル)と狭い。移住と野営の荷物がぎっしり積んであるため、人の乗るスペースはなく病人以外は乗らなかった。移住者達は「幌牛車」と共にオレゴン・トレイルを歩いたのである。オレゴン・トレイルの旅とはそのようなゆっくりした旅だった。

当時オレゴン・トレイルの目的地であったオレゴン、カリフォルニア地方は未開の処女地というわけではなかった。先住民はもとより、イギリス、スペイン、アメリカ、ロシアからの猟師、山師、毛皮商人達がすでに大勢海から入っていたのである。1850年の時点でオレゴン州の人口は12,000人余りだった。サンフランシスコはすでに大きな港町として賑わっていた。太平洋にクジラを追う捕鯨船団の基地として、また、アジアの国々との交易の玄関口として、たくさんの人と船が去来していた。街には貿易商社が軒を連ねていた。コロンビア河をさかのぼったワシントン州バンクーバーにはイギリスのハドソンベイ会社が交易所を開き、先住民や猟師達が大勢集まって毛皮などの取引を行っていた。

そして、ここが興味深いところなのだが、アメリカ東部から西部へ移住する手段は、オレゴン・トレイルだけではなかった。ことにニューイングランド地方(アメリカ建国初期の13州)からの移住者の多くが海路でサンフランシスコやワシントン州バンクーバーへやって来ていた。海のルートは2つあり、ひとつは南米最南端のホーン岬を廻るコース。もうひとつは大西洋側からパナマ地峡を越えて太平洋側へ船を乗り継ぐコースである(注1)。

1848年にカリフォルニアで金が見つかって以降は、カリフォルニア・トレイルを通ってカリフォルニアやオレゴンへ金を求めて人が動いた。ゴールド・ラッシュである。さらに、サンタフェ・トレイルを通って南西部を目指す人々もあった。モルモン教徒の一団は東部での宗教上の迫害を逃れ、モルモン・トレイルを通って15万人がユタへ移住し、自分達の新天地を建設した。今日のソルトレークシティーである。

フェリー・ボート
▲フィリップ・フォスター・ファーム。ここで最後の野営を行った移住者達は久しぶりに触れた文明生活(?)にホッとしたに違いない。建物の前庭の右手には、1843年に植えられたライラックの木がある。これはフィリップ・フォスター一家がメイン州の庭からはるばるホーン岬を廻る船で持ってきて、この地に植えたもの


先住民と移住民

「西部」と聞くと映画で見た西部劇のイメージを思い浮かべる人は多いが、「幌馬車隊がネイティブ・インディアン(以下インディアン)に襲撃される」というシーンはウエスタン映画が作った虚構のひとつである。オレゴン・トレイルの道中、インディアンと移住者達は物々交換をしたり、食料を分けてもらったり、ルートの案内役として雇ったりと友好的な関係であったし、インディアンは移住者達に親切であった。一度もインディアンを見ることなく旅したグループもあった。

フェリー・ボート
▲白人が入る前は大西部一帯でバッファローが大群を成して棲息していた。西部開拓に向かう人々の格好のタンパク源としてのみならず、ゲーム・ハンティングの対象として大量に射殺され絶滅寸前まで激減した


移住者達の一団はその日の野営地に到着して幌馬車を円陣に並べる。これはインディアンの襲撃に備えるためでなく、その囲いの中に家畜を集めておくためだった。1860年以降、移住団がインディアンの領地に立ち入るようになって両者に緊張状態が生まれることがあった。が、争いが起こると双方共に困るのである。だから両者のリーダー達は賢明にふるまって争いを避けた。たとえ一隊でも移民団が映画のようなインディアンの襲撃を受けたとしたら、その話はまたたく間に、そして誇張されて伝わっただろう。その時点で新西部一帯に大変な軍事的衝突、緊張があったはずだが、オレゴン・トレイルではそういうことは起こらなかった(注2)。毎年途切れることのなかった移住がそのことを裏付けている。むしろ移住者達が持ち込んだ伝染病が先住者達にとっての最大の災厄だった。大勢のインディアンがこのために命を落とした。さらに後年は、移住民がバッファローなどを際限なくゲーム・ハンティングしたため、先住民が生活の糧としていた野生生物が激減し、彼らを窮地に追い込むことになる。

※注1:オレゴン・トレイルを通って西部への移住が盛んだったころの日本は江戸時代末期。嵐で船が難破して漂流の末、アメリカの地を踏んだ漂流者のひとりに浜田彦蔵(ジョゼフ彦)がいる。彼は史上初の日系アメリカ人となったばかりか、ピアース、ブキャナン、リンカーンの3代の大統領と会った稀な日本人であった。彼は海路ばかりでサンフランシスコとワシントンDCの間を3回も往復している。
※注2:アメリカ先住民、ネイティブ・インディアンと白人との歴史は、侵入、迫害、圧迫のおびただしい数の悲惨な史実に満ちている。南部、中原、北部と、当時の北米(南米も)の各地で酷い侵略と抵抗があった。そんな中でオレゴン・トレイルと北西部は、大きな抗争のなかった希有な地域である。そのことは、この地域の先住民達が圧迫を受けなかったことでは決してない。機会があれば別の稿で取り上げたい。

Information

【ウェブサイト】
■オレゴン・ナショナル・ヒストリック・トレイル
(Oregon National Historic Trail)
国立公園局が中心となり、連邦土地管理局、国有林、ミズーリ州からオレゴン州までの6つの州の機関でOregon National Historic Trail (オレゴントレイル国定史跡)として公園化し保存、一般共用化されている。
ウェブサイト:www.nps.gov/oreg/

■国立オレゴン・トレイル資料館
(National Historic Oregon Trail Interpretive Center)
イースタン・オレゴン、ベイカーシティーの東の小高い丘(Flagstaff Hill)に建てられたオレゴン・トレイルの資料館。連邦土地管理局が管理運営する充実した展示内容のミュージアム。展示も素晴らしいが、屋外に現存するトレイルもぜひ歩いてみたい。
ウェブサイト:www.blm.gov

■フィリップ・フォスター・ファーム(Philip Foster Farm)
オレゴン・トレイル最後の難関である山越えの迂回路「バロー・ルート(Barlow Road)」にあるフィリップ・フォスター一家のファーム。彼らはメイン州から船で移住してきた。ルートの出口イーグル・クリーク(Eagle Creek)へ続々とやって来る移住団のために、食事処、宿泊所、ショップなどを営んだ。国定史跡に指定されている。
ウェブサイト:www.philipfosterfarm.com


2006年03月号掲載| 文・写真/小杉礼一郎

Manifest Destiny(明白なる天命)に導かれて西へ向かうのだと開拓者達は信じた。「オレゴン・トレイルは、人類が地球上を西に向かって歩いた最後の道だった」と言っても過言ではないだろう。

オレゴン・トレイル
▲ザ・ダレス近辺のコロンビア川は当時流れが速く、大きな滝もあった。現在はダム湖の広い水面が広がる

トレイルに沿って

オレゴン・トレイルは西部の6州を通っている。現州名で東からミズーリ、カンザス、ネブラスカ、ワイオミング、アイダホ、オレゴンである。西へ移住する人達は農民が多かった。鍬や鋤を幌馬車に積み家畜を追いながらの移動なので、できるだけ平原で、水も牧草も豊富な場所をルートに選んで進むことになる。初期の1840年代初めには“ここがルート”というものはなく、前の隊の轍(わだち)をたどり、それがなければ、前年、前々年の幌馬車隊の通った跡を追って旅していた。前の隊が間違ったルートを進めば後の隊もそれに続くというようなことも往々にしてあったに違いない。すぐに有象無象かつ玉石混合のオレゴン&カリフォルニアへの移住の案内書『Emigrants’ guide, Oregon and California』がいくつも売り出され、人々はそれを頼りに旅の準備を整え、道案内とした。これらのガイドブックや磁石、踏み跡、原住民の道案内、単なる勘など、あらゆるものを手掛りとし、彼らは西へ西へと歩く。道中の目印となったものはルートの所々にあり、かつ現在までランドマークとして残っている。特に大きな特徴のある形の岩山は格好の目印となった。現在各地にいくつもの「○○ロック」がある。中でも、ネブラスカ州の西にある150メートルの高さのチムニー・ロックは、ロウソクのような岩で、幌馬車と並んでオレゴン・トレイルの景色を代表するものである。このほか、断崖や砦、交易所、渡河地点などは目印というより旅の要所として、移住者の間で伝えられていった。オレゴン・トレイルを行く移住者の数が増えるとルートも次第に定まってくるが、旅の途上で亡くなる人達も多くなる。西の地平に夢を描き、果たせなかった彼らの無念の思いが後に続く人達を導く。トレイル沿いの人々の墓石もまた、貴重な道しるべになっていくのである。

オレゴン・トレイル
▼前編で紹介した国立オレゴン・トレイル資料館の屋外ディスプレー。写真のワゴンは実際に使われていたもので、オレゴン・トレイル上に展示されている


大まかにオレゴン・トレイルの前半(東)1/3に当たるカンザス、ネブラスカ州では、川に沿ったなだらかな平原が展開する。旅を始めるのは春であり、この比較的楽な行程で人々は6日間移動して1日休養するキャラバンのペースと生活技術を身に付けた。

続く中盤の1/3、ワイオミング、アイダホ州を進むころには季節は夏となる。厳しい山越えと砂漠を通らねばならず、トレイル中で最も苦しいところだった。大陸分水嶺はワイオミング州の西のサウス・パス(South Pass)。ここは標高7,550フィート(2,300メートル)だが、広いなだらかな峠道である。

オレゴン・トレイル
▲フィリップ・ファームでは、休日にファーム保存会(?)のボランティアが開拓時のいでたちで、アップル・サイダー、紅茶、クッキーなどをふるまってくれる。こんなサービスを受けた移住者達はさぞや生き返った心地がしたことだろう


道、米北西部に入る

終盤の1/3はオレゴン州。スネーク川、コロンビア川に沿った川沿いのルートである。緑が多く、ブルー・マウンテン辺りは景色が素晴らしい。移住者達はいよいよオレゴンに入って来たぞと昂揚したに違いない。しかし、川は深く流れは速い。水は冷たくて、当然ながら下流に向かうにつれてどんどん川幅が広くなっていく。川を渡る、あるいは川を下るのは大変な苦労だった。旅がこの辺りに差し掛かるころ、季節は夏の終わりから秋を迎え、川で産卵のため上ってくる多くの鮭を捕り食するという自然の恵みもあった。

オレゴン・トレイル
▲ザ・ダレスの西にあるコロンビア・ゴージ・ディスカバリー・センター&ワスコ・カウンティ歴史博物館。コロンビア川南岸の見晴らしの良い場所にある


オレゴン・トレイル最後の難関はコロンビア川中流にある現在のザ・ダレス(The Dalles)だった。この付近にセリロ・フォールズ滝(Celilo Falls。注1)があり、川を下るルートを取る場合はワゴンをばらしていかだに乗せる。中には命には代えられないと2,000マイルを連れ歩いてきた貴重な牛を売り、川下り専門のボートと人を雇って川を下る人達もあった。下流にも激流地帯が随所にあり、岩にぶつかったり、波に飲まれたりする事故が後を絶たなかった。川を行く危険を冒したくなければマウント・フッドの南麓を大回りする山道の「バロー・ロード(Barlow Road。注2)」を取った。こちらは大変急な坂で、いずれのルートを選んでも危険は付いて回る賭けだった。コロンビア川、バロー・ロード、この最後の難関を通って人々は苦難の旅の終点、オレゴンシティーに辿りついた。オレゴン・トレイルを通ってきた数十万の人達の目にはその当時のオレゴン(北西部)の地はどのように映ったのだろうか? まず、人々の目に入ったのは木々の濃い緑と肥えた土の黒さだったろう。実際にオレゴンシティーのあるウィラメット・バレー一帯は全米でもトップクラスの沃土で、移住者には農民が多かったから、さぞうれしかったはずだ。一方、貿易や海産の可能性を秘める太平洋の海は、農民達の目には単に西の地の果てと映ったのだろうか。

オレゴン・トレイル
▲エンド・オブ・オレゴン・トレイル・インタープリティブ・センターの入り口はうまく作られた舞台になっている。インタープリテーションは入館前のここから始まっている


なぜに人は西へ?

ルイス&クラークの探検行から30余年、歴史は近世から近代へと入る。若き人工国家アメリカはひたすら膨張を続けた。国土も、人口も、経済も、である。そして経済には景気の波が起きる。1837年と1841年の不況、その食い扶持のはけ口が西部への移住の引き金だった。さらにその動きを後押ししたものが2つある。まず1848年にカリフォルニアで金が発見された。ゴールドラッシュである。そして1862年に制定されたホームステッド法(注3)が本格的に西部開拓を推し進め、人々は自分達の農地を求めて続々とオレゴンを目指した。

オレゴン・トレイルは人類が最後に西へ向かって歩いた道だったと言えるだろう。

オレゴン・トレイル
▲インタープリティブ・センターの巨大な幌はI-205からもよく見える。が、強風により2つの幌が外れたままだ。改修の目途は不明


陸地の空白地に満ちようと、哺乳類ヒト科は次々と自分達の足で歩いて棲息域──フロントを広げていった。その先で1万年以上前に東へ広がってきた同属と出会うのである。まさに人類史の“East meets West”。この遭遇は、太陽系の3番目の惑星に生命が生まれて以来セットされていた「天命」だったのかもしれない。

※注1:ザ・ダレスの上流にあったセリロ・フォールズ 。この滝は1960年のザ・ダレス・ダムの完成で水没した。また、現ボナビル・ダムの辺りは流れの速い瀬になっていた。
※注2:バロー・ロードは個人が開いた道でいわば“有料道路”だった。通行料は当時ワゴン1台$5。現在の物価では$250ぐらいに相当するだろうか。
※注3:1862年に制定されたこの法律では、開拓農家ひとりに対し160エーカー(約64ヘクタール)の土地が手数料のみで与えられた。申請から半年以内にそこに住み、5年以内に開墾することが条件。

Information

【ウェブサイト】


■オレゴン・ナショナル・ヒストリック・トレイル
(Oregon National Historic Trail)

自らもトレイルを通って来た移住者であるエズラ・ミーカー(Ezra Meeker)が、1906年、76歳の年に幌馬車を使って逆にオレゴン・トレイルを西から東へ辿った。途上、すでに風化し消えつつあったオレゴン・トレイルのルートとランドマーク(目印)をしるしながら旅した。彼はセオドア・ルーズベルト大統領とも会い、アメリカの国家史跡としてオレゴン・トレイルの保全を訴えた。1928年に亡くなったが、彼の行為は長く人々の関心を集め、現在は国立公園局が中心となり連邦土地管理局、農務省森林局、ミズーリ州からオレゴン州までの6つの州の機関でOregon National Historic Trail(オレゴン・トレイル国定史跡)として公園化、一般共用している。
ウェブサイト:www.nps.gov/oreg/

■エンド・オブ・オレゴン・トレイル・インタープリティブ・センター
 (End of The Oregon Trail Interpretive Center)

その名の通り、オレゴン・トレイルの終点に建つミュージアム。3つの大きな幌が展示館を覆っている。展示品もさることながら、当時の移住者の装束で再現されるショーも当時を物語るインタープリテーション(解説、説明)の一環だ。
ウェブサイト:www.endoftheoregontrail.org/mambo/

■コロンビア・ゴージ・ディスカバリー・センター
 &ワスコ・カウンティ歴史博物館
 (Columbia Gorge Discovery Center
 & Wasco County Historical Museum)

ルイス&クラークの探検ルートとオレゴン・トレイルのルートが唯一重なる地点がここ。このミュージアムは両ルートの展示に加え、コロンビア川中流域の先住民の展示もある。
ウェブサイト:www.gorgediscovery.org

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。ウェブサイト:http://c2c-1.rocketbeach.com/ ̄photocaravan