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自然と人間のバンダリズム

アメリカ・ノースウエスト自然探訪
2008年07月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

自然のバンダリズム(バンダリズム考ー前編ー)

サイクロン、地震、噴火、津波や山火事……。地球ある限り、これらの自然現象は続く。
あえて「自然のバンダリズム」と擬人化して北西部の景色をじっと眺めた時、そこから見えてくるものは?

セントへレンズにて

「バンダリズム」=vandalismという言葉を目に、あるいは耳にされたことがあると思う。ひと言で言うと、建物への落書きなどの「公共物の破壊活動、あるいは破壊活動美術」だ。※1

大体が、人間が人間の作ったものへ手を掛けることであって、「自然のバンダリズム」というのはあり得ない。だから、この言葉は隊長の全くの造語である。でも天地が自らを破壊する自然の様とその回復を、時をおいて眺めることは、人間の(?)バンダリズムを考える際の、言わば「補助線」の役割を果たすであろう。

セントへレンズ山の山腹に立ち、爆風でなぎ倒された原生林を目の当たりにする時、私達人間は、お釈迦様の手の上を飛び回っている孫悟空のように思えてしまう。
サイクロン、ハリケーン、台風、竜巻、雷、山火事、地震、地殻変動、火山の噴火、これらの自然現象の発生は防ぎようがない。人間が防ぐことができるのは「被害」であって、このことへの気付きが科学技術の片輪をなす人間の知恵というものだろう。

山火事は悪いこと?

山火事と人間の関係史は、かなりこっけいである。人類の歴史250万年の中で、「山火事! これは消さねばならない」となった時期は、戦後ほんの30年余りの間だけである。それ以前は、山火事に対して人はなすすべがなかった。人間が大型飛行機を手にし、かつ予算が潤沢に使えた時には、積極的に山火事は消されていた。しかし、それ以降は「山火事は本来消さなくてもいいもの。なぜならそれが地球上の自然の摂理だから」ということが明らかになってきた。そして、自然の森は、山火事だけが原因で消失してしまうほど、ヤワなシステムではないということも。

内陸に広く分布するロッジボール・パインの林が、よく知られる例である。パイン類は松かさにある種で次世代の木を繁茂させるのだが、松かさのいくつかは松脂で堅く硬められていて、種をまき散らすことができない。山火事が起きると、通常の松かさは燃えてしまうが、この樹脂でガチガチの松かさは、炎の熱で松脂が溶けるため、結果的に焼け跡に種子を撒くことになる。そして翌夏、山火事で真っ黒になった山肌に、次の世代の稚樹が一斉に芽吹いてくるのだ。

こうして、森林は山火事を利用して一気に世代交代をやってのけるのである。

自然のバンダリズムの驚くべきことは、リカバリーのプロセスが自然自体に備わっていることである。これに、下手に人間が介入してくると、ややこしいことになる。だから、近年は明らかに「不自然な森林火災」でかつ、人家などに類焼の被害が及ぶものだけをコントロールし、それ以外はウォッチするという方針が主流になりつつある。

北西部の自然

アメリカ北西部には、ハリケーンは来ないし、中西部のように竜巻が多発するわけでもない。緑があふれ、美しく多彩な自然景観が広がっている。しかし「天は二物を与えず」という言葉は「人」のみならず「場所」にも当てはまるのか。

環太平洋火山帯の一角である北西部には、地震と火山活動が多い。また、それら自然のバンダリズムによる傷跡を修復していく自然の力もおのずと備わっている。冬の雨とそれがもたらす幾重もの緑の存在である。

ジェファーソン山山火事
▲オレゴン州、ジェファーソン山麓の原生林の山火事跡
セントへレンズ山の大噴火
▲1980年5月18日、セントへレンズ山の大噴火により一瞬にして広大な原生林がなぎ倒された(ワシントン州)
倒木と花畑
▲周辺には花畑が広がり、倒木の跡に稚樹が育ち始めている。自然自らがバランスを取り戻しつつある
山火事の後の草花
▲山火事跡地の復活は、まず1年生の草花から。群生するルピナスは、黒焦げた大地を空へ追いやるような自然の浄化力を感じさせる
(セントラル・オレゴン)
座礁船
▲1906年に座礁した英帆船ピーター・アイルデール号の残骸。100年の波風が成すモニュメントは、人間のアーティストを凌ぐ
立入禁止
▲ここより野生生物の領域。そのサインをクマがかじらないように、釘を打ち付けてある


次回は人間のバンダリズムについて

自然のバンダリズムは、人知を超えて強大で、ほぼ瞬時にして自然景観を一変させてしまう。そして自然自らが分解、消失して、次に再生し回復していく。その一連の経過を見ることで、私達は自然のダイナミズムを知ることができる。
山に登り、海辺を歩いて心を静かに開く。自然のダイナミズムに思いを馳せると、生きている地球に今、自分もシンクロナイズしている、とふに落ちる時がある。自然探訪の至福の瞬間だ。

今回、あえて「自然のバンダリズム」と銘打ち、少々こじつけがましい記事を書いたのは、次回への枕を振るためである。「人間のバンダリズム」を述べる際の、言わば伏線を敷いておきたいと思ったからだ。

ここに紹介した写真が物語るように、「自然のバンダリズム」には自浄作用がある。それには人間のスケールで見ると、年単位の長い時間が必要だが、地球のスケールで見れば、自然に備わった一瞬に働くリセットボタンのようだ。そして、しょせん「バンダリズム」とは、人間と人間の間の話である。

「何も足さない 何も引かない」とは、あるモルトウイスキーの宣伝コピーだが、これはいいフレーズだ。人間が自然に向かい合う時にあるべき姿勢は、まさにそれである。次回はそのことについて隊長の思いの丈を語ろうと思う。
(「人間のバンダリズム(バンダリズム考ー後編ー)」に続く)

Information

■セントへレンズ国定火山公園観測所
場所はビジター・センターから山頂に向かい約50マイル、車で1時間あまり。標高4,200フィート(1,260メートル)の所に設置された観測所だ。展望台からは、爆裂火口と爆風でなぎ倒された広大な森林帯をつぶさに見ることができる。このセンター内の展示、映画共に素晴らしい。周辺には植生が回復し始め、花畑が広がっている。
Mt. St. Helens National Volcanic Monument
ウェブサイト:www.fs.fed.us/gpnf/mshnvm/


2008年08月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎

人間のバンダリズム(バンダリズム考ー後編ー)

このところ日本発の「グラフィティー」のニュースが目に付く。聖火問題がらみか長野善光寺本堂への落書きや、イタリアの世界遺産大聖堂への落書きも問題になった。ボーダーレス化するバンダリズムについて考える。

人間へのバンダリズム

私達がいちばん身近に見るバンダリズム※1は、まずグラフィティーであろう。アメリカにいてこれを見たことのない人は少ないはずなので、改めての説明は省くが、要するに「落書き」である。ほとんどが壁や、鉄橋、道路周辺の建造物などの人工物になされる。器物破損にあたり、無論、違法行為である。

グラフィティーにも分類があるのだが、門外漢(?)の我々は、ほぼ読解も意味も不明の文字を書きなぐった「タグ」、絵の「ピース」、少し(は)見られる凝った絵の「プロダクション」くらいの区別は知っていても良い。

ちょっとは芸術性があるかな?というものに出合うことは稀である。書く本人はどうか知らないが、ほとんどは見る人にとって良くないイメージでしかない。もっともグラフィティー・ライターの間では「すでに描かれているグラフィティーの上に書くものは、さらに芸術性の高いものでなければいけない」という不文律があるそうだ。この方向に沿って地域の都市景観を少しでも良くしようと、リーガル(合法的な)グラフィティーなど、いろいろな試みが各地でなされている(右ページ写真参照)。この不文律もなくなる時代が来るなら、それこそ末世であろう。

グラフィティーに対する隊長のスタンスは95%否定、5%肯定派である。伝説のロック歌手、カート・コバーン※2が、高校時代に自宅の近くでギターを弾き歌っていたアバディーンの橋(Young Bridge)の下は、生前の彼を慕って訪れたファンのメッセージで埋め尽くされている。が、道路からは全く見えない、知る人ぞ知る「ロックの聖地」と化している。これなんかは一種の「棲み分け」と言えよう。実際、法や規則、経済でガチガチの社会の中でも、こういう形で人々が心を通じ合える風穴としての一面もグラフィティーは持っているということである。

都市景観、自然景観を見る時、私達、あるいは自分は何に対して「美」を感じ「醜」を感じるか?……私達が「醜」を感じるもののほとんどは、人間の手が加わったものであり、いかに自然の中に「醜」が少ないかがわかるだろう。それは私達の内なる自然「心」のあり方についても言える。幼子を見てみよう。ただ素直に美しいものを求め楽しむことは、生来ヒトに与えられた心の自然である。

グラフィティーのほかに、物や建物を壊すバンダリズムもある。ミミッチイものに対しては、その人の心の荒みようが伝わり、ただただ不快であるが、大きなものには多分に文化的・政治的なメッセージが込められたものがある(下記Information参照)。いわゆるエコ・テロリズムというものがあるが、それについてはここで触れない。

真に恐れられるべきものは、バンダリズムに括られるものではない。それより遥かに大きい、悪意すら伴わない他者の価値観、経済(しばしば軍事)によるブルドーザー的行為である。

自然へのバンダリズム

「バンダリズム」について書くとなるとネガティブなことが多いのだけれども、朗報もある。それは、隊長が米北西部の自然を訪ね歩いたうえではっきり言い切れることだが、自然へのバンダリズムはほとんどないということである。

ヒトは他人や社会に対してはいざ知らず、自然に対して悪意を抱くことは稀であるし、悪意を持っていたずらするには、自然は大き過ぎる。むしろ人間へのバンダリズムと同様に、自然に対しても遙かに大きい人間の脅威は、悪意すら伴わぬ経済活動によってもたらされている。すなわち大規模な開発、環境ホルモン、海や空気の汚染、温暖化、放射能の脅威などだ。

よく「地球にやさしい」「環境にやさしい」と言うけれど、本当は「ヒト(=他人)にやさしく」という尺度のほうが、真実に1歩近付けると思う。しかし、さらにもう1歩必要である。ヒトを中心に置いていては、やがてはヒトの生存も脅かされるということを忘れてはいけないと思う。

中国では、治水のためにはげ山に植林しても、人々が木を抜いてしまう(売るか、自宅に植え替える)そうだ。また、景観のために山の岩肌を緑色のペンキで塗った例もあるが、日本の海や河川の護岸工事にもそれに近いセンスがあるのでは。鳥や動植物にとっては、それが緑色だろうが、むき出しのコンクリートだろうが、落書きだらけだろうが、素晴らしい壁画だろうが、関係のないことだ。造花にミツバチが来ないこと、リスが美術館でなく、その外の森へ向かうのと同じことだ。もし自然の側から言わせるなら、インパクトが大きいほど、さらに自然の自律復旧能力を超えるほど、人間からの「バンダリズム」が激しいということになる。

隊長は改めて思うのだが、商業コピーながら「何も足さない何も引かない」という言葉は、人間が自然に向き合う時の金言である。だがしかし、ヒトが数十億固体、この惑星の表面で生きていく以上、願ってもそれはできない。さすれば「最小限しか足さない、最小限しか引かない」。その加減をわきまえることを忘れないことが現代の金言なのであろうか?

ノースウエストの感性と希望

私達の住む米北西部の自然は、緑も多くアメリカのほかの地域の自然景観に比べて格段に豊か、かつ多様である。この風土は、どちらかというと日本のそれに近い。このことは、自然に対して大ざっぱ、悪く言えば雑でガサツなアメリカの感性の中で、より繊細な感覚を醸している。このことを北西部の人々は誇って良いと思う。自然に対してヒトとのつながりを感ずるには、この繊細さが要る。そして、さらに難しいことなのだが、そのことは人と人との心のつながりを育む糸口のように思える。

現代は、人間と自然の共存は大きなテーマであるが、米北西部はヨーロッパや日本に次いでそれを模索し、理想に近付け得る地域ではなかろうか。時にはそういう目で身の回りの街や自然を眺めてみたい。バンダリズムはそのひとつの良い教材であり、地球に対してあなたができることは、意外に身近な所から始まっていると隊長は思う。

※1 バンダリズム/ヴァンダリズム(Vandalism)は、公共物の破壊活動、あるいは破壊活動美術のことを言う。5、6世紀に掛けて西ローマ帝国に侵入し、ローマ市街を破壊したヴァンダル族に由来する。現代では鉄道や公共の建物の壁などにスプレーで落書きをする行為がよく知られている。英語でグラフィティー(Graffiti)とも呼ばれる。

※2 カート・コバーン(Kurt Cobain)

ワシントン州アバディーン出身のロック歌手、ギタリスト。バンド「ニルヴァーナ」を結成し自分の感性に忠実な音楽を紡ぎ出す。デビュー・アルバム「ネヴァーマインドーNevermind」の世界的大ヒットは、ロックをロック自体の呪縛から解き放った「グランジロック」の始まりだった。1994年、シアトルの自宅で自殺。享年27。

倒木と花畑
▲スパナウェイ(ワシントン州)にある鉄道高架橋。ほぼ全面落書きで埋め尽くされている
山火事の後の草花
ジェファーソン山山火事
▲▼ワシントン大学近くの陸橋高架部分。これらはMural(壁画)と呼ばれるリーガル・グラフィティー。なかなか凝った、見応えある絵柄が道の両サイドに続いている。こうなったら安直なタグ屋は手が出せない
セントへレンズ山の大噴火
▲隊長の家の近くで「タグ」と呼ばれるグラフィティーを消す愚息。こうしていると車で通る人達が911に通報して、しょっちゅうポリスとシェリフがやって来る。グラフィティーを書いているのか消しているのか一見わからないのだろうが、「ちゃんと見なよ」「少しくらい手伝ってよ」と言いたくなる
座礁船
▲ポートランド郊外のグレシャム市(オレゴン州)では毎夏大きなジャズ・フェスティバルが催される。ミュージシャンをモチーフにした絵を市街のあちこちで見掛ける。これは映画館の壁に描かれている絵で、コロンビア・ゴージでのフルート・プレーヤーを模したもの


Information

■バーミヤンの石仏
ヒンドゥークッシュ山脈にあるバーミヤン渓谷(アフガニスタン)に5、6世紀に築かれた仏教遺跡。11世紀にこの地はイスラム圏に入り、偶像崇拝を禁じたイスラム教徒の手により顔の部分がそぎ落とされた。2001年、タリバン政府の手によって石仏全体が爆破される。2003年、ユネスコにより「危機遺産」として世界遺産登録された。
Cultural Landscape and Archaeological Remains of the Bamiyan Valley
ウェブサイト:whc.unesco.org/en/list/208

■フォート・クラットソップ国定史跡
ルイス&クラーク探検隊の砦。1805~1806年の越冬地に、当時の建物が約50年前に再建された。が、2005年のルイス&クラーク探検隊200年記念の直前に半焼。エコ・テロリズムと呼ばれるものと同類の放火と推察されている。1年後の2006年に砦は再々建された。200年前に築かれた砦が自然の中でやがて朽ち、今から半世紀前に再建され、50年なりの風格をまとった後、200年紀を前に半焼した建物は、それがそのまま、ありのままの合衆国を伝えるレプリカでなく「本物の」歴史教材となったはずのものだった。隊長はバーミヤンの石仏と同様の考えで、半焼のままでも残すべきだったと思っている。「初めに砦ありき」の考えがあり、「その非を問う」という人々がいることを表す、何よりの証左であったからだ。
Ft.Clatsop National Memorial
ウェブサイト:www.nps.gov

Reiichiro Kosugi
1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。ウェブサイトをリメイク中。