2008年10月号掲載 | 文・写真/小杉礼一郎
いまや佳境に入った大統領選挙。北西部の自然を舞台に
数々の歴代大統領とキラ星のごとき名脇役陣らがつづってきた
この国の自然と人とのかかわりをたどる。
19世紀ーー領土拡張の時代
初代、2代、3代、3人の合衆国大統領。彼らの名を冠した山がカスケード山脈にある。すなわちマウント・ワシントン(2,376メートル、オレゴン州)、マウント・アダムス(3,742メートル、ワシントン州)、マウント・ジェファーソン(3,199メートル、オレゴン州)の3峰である。
彼らがその職に在った18世紀末から19世紀初頭のアメリカという国は、生まれたばかりの赤ん坊のような弱小国だった。首都がフィラデルフィアからワシントンに移されたのは1800年。この時代のヨーロッパの列強に遅れてはならじと、この国も当然のように領土拡張を目指す。場所は「新大陸」、合い言葉は「フロンティア」、荒唐無稽な時代である。アメリカはフランスからルイジアナ(西部)地域を1,500万ドルで(1エーカー4セント)、ロシアからアラスカを720万ドル(1エーカー2セント)で買った。
ルイジアナを購入したのは、3代トーマス・ジェファーソン大統領の時代で、彼はただちにこの土地にルイス・アンド・クラーク探検隊を送り、自然と地理を調べた。※1 後年この探検の成功により、現在の北西部を合衆国の領土に加えることになった。復路、一行の分隊は、最初の国立公園となるイエローストーンの存在を知ることになる。しかし、移動も通信の手段もない時代、中央から遠く離れたこの神秘の自然の王国がアメリカの人々に知られたのは、18代グラント大統領の時代、1871年だった。内務省地理調査部長のヘイデン博士がイエローストーンに、当時実用化されたばかりの写真機とその技術者、後年高名になる画家モーランらからなる調査隊を送った。ワシントンで開催された公聴会での彼らの報告が議員達を動かし、翌1872年にイエローストーンは国有地化。世界初の国立公園が生まれた。
アラスカ購入を進めたのは、16代エイブラハム・リンカーン大統領が任命したスワード国務長官だった。しかしリンカーンが暗殺された同じ晩に彼もまた別の実行犯の手に掛かり、大けがを負う。購入が決まったのは1867年、17代A・ジョンソン大統領の時代である。当時のアメリカの世論は、スワード国務長官の決断を「愚行」呼ばわりした。彼は嫌気がさし「アラスカが我が国に必ず富をもたらすことを将来君たちは知るだろう」と記者達に言い残し国務省を去る。アラスカは文字通り自然の宝庫であり、毛皮、木材、水産、銅鉱、金鉱、石炭、石油などが相次いで産出された。彼の汚名は時をおかず賞賛に変わった。
アラスカにある、アメリカ最高峰のマッキンリー山(6,194メートル) は、合衆国地図に公式に記載する段になって、前オハイオ州知事で当時の大統領候補であったウィリアム・マッキンリーの名前が冠せられた。これは彼の推薦者の画策による、売名を目的とした純粋に不純な政治取引であった。彼自身その山へは行ったことも見たこともなく、アラスカにすら行っていない。
25代大統領に就任したマッキンリーの功績は(この記事の観点からのみ眺めると)、ワシントン州のレニア山を第5番目の国立公園とする法案にサインしたことと、2期目の就任時1901年にセオドア・ルーズベルトを副大統領として指名したことだろう。マッキンリー大統領は2期目わずかで無政府主義者に暗殺された。ちなみに1881年には第20代のガーフィールド大統領も暗殺されている。このようにアメリカは、アメリカらしく19世紀の幕を閉じ、セオドア・ルーズベルト※2が急遽26代の大統領に就いた。当時彼は43歳、米国史上最年少の大統領である。
20世紀ーー模索と充実の時代
ほんのちょっと前のようにも、遠い過去のようにも思える「20世紀」は、人類史上でも自然史上でも、おそらく大変な100年なのだろう。まして世界の壮大な実験場とも言えるこの新大陸で起こったことを、どうくくればいいのだろう?
大統領と自然という面からふたつの変化を挙げてみよう。まず、人間の科学の力が自然に対して大きくなり過ぎ「自然は無限」から「自然は有限」へと人間の意識が変わったこと。そしてこの国が巨大化したこと。社会の仕組みを作ることや変えることが、ひとりの力から組織、世論の力へシフトしてきた。フロンティアは消え、狼は絶滅し、人類は自然を征服したかに見えたが……それは前世紀から引きずってきた世界観の大きな誤算だった。20世紀末になって私達はようやくそれに気づき始めたようである。今でなら市井の人でもそういう理解ができることを、ルーズベルトという人は100年前にすでに気付いていた節がある。ラシュモアの岩山に刻まれた、ただひとりの20世紀の大統領は、明らかに傑出した大統領であったと思う。
T・ルーズベルトの功績
アメリカの自然保護政策は、ルーズベルトから始まったと言っても間違いではない。彼はアメリカの自然に育まれ鍛えられ、根っから野外が好きで、大学卒業後は博物学者を志していた。そのことが後年政治家になってから、この若き大統領をふたりの稀有な人物に引き合わせる。ジョン・ミュアとギフォード・ピンショーである。
ジョン・ミュアという人物をひとことで言い表すことは難しい。アメリカの国立公園の父と言われ、一方で環境保護団体「シェラ・クラブ」を作り、自然保護思想の源流をなした。彼の生涯の一面だけを見ると「放浪作家」と言ってもいい。アメリカの自然神が人間達に話をつけるために降りてきたような、キリストみたいな人である。ルーズベルトとミュアは1903年にヨセミテの自然を共に歩き、ルーズベルトはミュアの自然保護思想に深い感銘と啓示を受けた。
ギフォード・ピンショーは、アメリカの森林政策の父と呼ばれる※3。ルーズベルトは、彼を初代森林局(日本でいう林野庁)長として抜擢。当時35歳のこの若き森林局長に、今日まで続くアメリカ国有林の組織作りを任せ、ピンショーはそれまで無秩序だったアメリカの森林行政を、「保全」を基礎とした合理的なものに変えた。
ルーズベルトは、大統領在任中に国有林の面積を4倍以上に増やすほか、野生生物保護区の制度を作り、全米で5つの国立公園※4と2箇所の猟獣保護区、51箇所もの野鳥保護区を指定した。また、初めて食品衛生、添加物に関する規制の法律を定めた。消費者のための反トラスト政策を進めたり、パナマ運河の建設、はたまた日露戦争時には日本とロシアの仲裁役を引き受け、ポーツマス条約が締結された。この功労で彼はノーベル平和賞を受賞する。
このようにルーズベルトは外交、内政全般にわたって進歩的な政策を精力的に推し進めたので、共和党員でありながら「社会主義者」とまで呼ばれたが、国民から熱烈に支持された。
※1 ジェファーソンが考えた探検隊の目的は多岐にわたった。
※2 Theodore Roosevelt テディ・ベアの名は彼に由来する。また、米西岸のエルク(=エゾ鹿)のことを別名ルーズベルト・エルクとも呼ぶ。後年の32代フランクリン・D・ルーズベルト大統領は彼の従兄弟。
※3 セント・へレンズとマウント・アダムス一帯(ワシントン州)の国有林はギフォード・ピンショーの名を冠している。米栂と米松の見事なオールド・グロス(原生林)がある。
※4 クレーター・レイク国立公園はルーズベルト大統領時代に指定を受けた。
▲1872年、世界初の国立公園となったイエローストーン。黄色い谷の岩肌がその名のいわれ
▲サウス・ダコタ州にあるマウント・ラシュモア国定記念公園。左よりジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン
©Photo by South Dakota Tourism
▲シアトルのボランティア・パークにあるスワード国務長官の銅像は、アラスカではなくシアトルの中心部を向いて立っている
▲▼北カリフォルニアとオレゴンを一望するロウアー・クラマス野生生物保護区。春と秋の渡り鳥の時期には数十万羽の鳥達がここで翼を休め、食物を得る
■ロウアー・クラマス野生生物保護区
カリフォルニア州北端にある、水面、湿原、草原、周辺の耕作地を含む5万エーカーにも及ぶ広大な野鳥保護区。北米西岸メキシコからアラスカへ渡る鳥達の貴重な中継地となっている。
Lower Klamath National wildlife Refuge
ウェブサイト:www.fws.gov
■セオドア・ルーズベルト国立公園
25歳の時、母と妻を亡くしたセオドア・ルーズベルトが、傷心の2年間を過ごしたノース・ダコタ州の牧場跡。彼の自然保護思想の原点と言える場所で、現在、歴代大統領の名を冠した唯一の国立公園となっている。
Theodore Roosevelt National Park
ウェブサイト:www.nps.gov/thro/
Reiichiro Kosugi 1954年、富山県生まれ。学生時代から世界中の山に登り、1977年には日本山岳協会K2登山隊に参加。商社勤務を経て1988年よりオレゴン州在住。アメリカ北西部の自然を紹介する「エコ・キャラバン」を主宰。北米の国立公園や自然公園を中心とするエコ・ツアーや、トレイル・ウォーク、キャンプを基本とするネイチャー・ツアーを提唱している。 |
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