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木田投手とシアトル・マリナーズ

※このページは、2004年にシアトル・マリナーズへ移籍した木田優夫投手ついて、当時に作成・掲載されたインタビュー記事を基に再構成したものです。

■2004年9月号

今に掛ける~木田優夫投手、マリナーズ移籍~

取材・文、阿部太郎

大リーグのロースター枠が拡大された9月1日、マリナーズはロサンゼルス・ドジャースからひとりのベテラン投手を獲得した。木田優夫、日本ではご存知の方も多いであろう。1986年に巨人入団、1990年には最多奪三振を獲得するなど先発、中継ぎ、抑えとフル回転の活躍をした。その後1998年にオリックスに移籍し、1999年にはFAでメジャーリーグのデトロイト・タイガースへ入団。2000年には再びオリックスに戻ったが、昨年ドジャースとマイナー契約を結び、その年の8月には見事3年ぶりのメジャー復帰を果たした。今シーズンもドジャースでプレーしていたところ、中継ぎ不足のマリナーズから白羽の矢が立ったのである。

木田といえば、時速150キロを超す速球とフォークが持ち味の投手。ここ最近は中継ぎでの登板が目立つが、先発も抑えもすべてこなし、チームとしてみればとても使い勝手のいい投手である。だがそれゆえ、木田には怪我がつきまとった。木田はメジャーに移籍して以来、毎年けがに泣かされ続けている。1999年脇腹の肉離れ、2000年肉離れと骨折、2001年椎間板ヘルニア、2002年腰痛。昨年はあろうことかシーズン前に交通事故を起こしてつま先を骨折、前半戦を棒に振り、今シーズンも持病の腰痛で手術を余儀なくされた。いくら野球人にけがはつきものとはいえ、これほどのけがを乗り越えるのは至難である。しかし、木田はけがをするたびに不屈の闘志で立ち上がった。七転八起。倒れても、倒れても這い上がった。野球への熱い思いが常に木田をマウンドに駆り立てた。そういった状況の中で、36歳を迎えても一向に衰えない“がむしゃらさ”は生まれたのだろう。「とにかく僕は投げろと言われれば投げるだけ、それ以外にない」。こう言い切るベテランは、野球ができる喜びを誰よりもわかっている。それはマリナーズに移籍しても決して色あせることはない。

木田にとって新天地シアトルは験のいいチームである。木田がメジャー初勝利をあげたチーム、それがマリナーズなのだ。木田自身も「遠征でシアトルを訪れた時からいい町だと思っていた。日本人コミュニティーも発達しているし暮らしやすい」とシアトルに好印象を持っている。さらに、「デトロイトにいた時に、メルビン監督とはコーチとして一緒にやっているし、GMビル・バべーシとは去年ドジャースで一緒だったんで、とてもやりやすい。ふたりとも人間的にすごくいい人だし」。新天地シアトルで復活を期す男は、再び輝きを取り戻せるのだろうか。

「とりあえず残りのシーズンを目いっぱいやって、来年のことはそれから考える。一番いいのはシアトルと契約してもらうことだけど、それは終わってみないとわからないので」。木田のコメントは、メジャーリーグという最高の舞台がいかに厳しいかを物語っている。イチローの記録挑戦に沸き、松井秀喜のプレー・オフを懸けた試合に熱狂している我々にとっては見失いがちだけれども、大リーグとは明日の保証すらない場所なのである。木田はそのことが十分にわかっている。だからこそ遠い未来は考えない。大好きな野球を続けるために、メジャーという最高の舞台で輝くために、今日も木田は今だけを見つめてマウンドに立つ。

阿部太郎

スポーツ・ライターになりたい、大リーグを取材したいとの一心で渡米を決意。「スポーツは世界を救う」をモットーに、いつの日か自分の書いた文章が多くの人に勇気を与えることを夢みている。シアトル在住4ヵ月。本業はスポーツ・ライターと言いたいところだが、半人前の学生。上智大卒。