シアトルやポートランドで活躍する方々に人生の転機についてインタビュー
■ 年間28万人が訪れるポートランド日本庭園。ここで庭の統括をしているのが内山貞文さんです。庭師の家を継ぎたくなかった内山さんが、日本庭園の仕事に就くまでの転機を伺いました。(2014年4月)
内山造園の次男として福岡県に生まれる。地元の高校を卒業後、外資系会社員を経て西日本短期大学卒業。78年から青年海外協力隊、JICAで公園の開発等に携わる。87年に渡米し、92年イリノイ大学卒業。94年ポートランドで日本庭園を手掛ける来栖インターナショナルへ入社。08年ポートランド日本庭園ガーデン・キュレーターに就任。
僕は庭師の3代目で、小3くらいから祖父に連れられ庭の現場に行っていました。高校を卒業する頃には1人立ちできるくらいになっていましたよ。庭師の仕事が十分分かったからこそ、庭師になるまいと思いまして。工業高校でコンピューターを学び、就職しました。親に言われ、21歳で跡取りのため造園を学ぶ短大へ。でも、庭に興味がなく、石彫家の先生のアトリエに入り浸っていました。
卒業後は、家を継がない大義名分ができるから、青年海外協力隊でタンザニアに3年近くいました。親も国の役に立っているからいいだろうと。そこで植林をして、その後一旦日本に帰り、今度はJICAでイエメンに3年弱くらい。都市開発・造園専門家として公園の開発に携わりました。とにかく家を出たくて。
でもそれが転機で、造園というより緑化、大きな意味での緑に関わる仕事を見直し始めたんです。タンザニアもイエメンも公園なんてないんですよ。薪のために木が全部切られて土地は荒れ放題。それを見て造園の仕事への思いが変わり始めて。緑に関わる仕事は大切だと思うようになってきたんですね。それで、勉強し直そうと思ったわけです。それがアメリカに来るきっかけです。
– 自分のやるべきことと 日本庭園の魅力を発見
2カ国の大規模緑化を通して、日本で手掛けたような個人庭園ではなく、セントラルパークのような大きい庭を手掛けたい憧れが生まれ、イリノイ大学では造園を学びました。親父からは勘当状態。30歳過ぎて仕送りもなく背水の陣です。
大学の先生方は僕が庭師の3代目と知っていたので、先生から日本庭園について教えてくれって言われることの方が多かったくらい。ところが職人として育ってますから、答えられないんですよ。頭でなく体で覚えてるから。職人の世界は、話す時間があれば仕事しろっていう世界。だから技はあるけど、それが何なのか分からないし説明できない。大学で、ものを説明することを学んだんですね。
また、大学で日本庭園の良さを再発見したんです。日本の美学、ものに対する向かい方、自分が日本庭園の歴史の上に立っていることすら、それまで気づかなかった。子どもの頃から造園の仕事はきつくて格好良くないと思ってました。ところがデザインの先生は、日本庭園は良いものと言う。アメリカで初めてそういう視点に出会ったんです。
そこからですよ、日本庭園をもう一回見直して、勉強し始めたのは。アメリカで日本庭園を再考し、確かな情報や自分の中にあるコンテンツを伝えることついて考えるようになりました。
– 今の仕事これからの夢
日本庭園で僕ぐらいの技術を持っている人は大勢います。ところがそれをアメリカの文化も理解した上で、説明できる人はいない。日本庭園の背景や伝統を伝える、つまり教育が僕の今の仕事です。
家の仕事が嫌で出てきたけど、今は親、祖父に感謝してます。その恩返しとして、日本庭園のキュレーターをしている部分もありますね。
当園は、日本庭園や日本文化を教える施設を作る計画があるんです。ここが日本庭園や文化の情報のハブになればいいと思っています。それが大きな夢です。
▲ 北イエメンで公園開発に取り組んでいた頃に友人と。この頃から造園への意識が変わり始める
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