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【私の転機】オレゴン・バレエ・シアター プリンシパル 杏紗カピツィさん

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シアトルやポートランドで活躍する方々に人生の転機についてインタビュー

オレゴン・バレエ・シアターで、プリンシパル(トップダンサー)として活躍する杏紗さん。同バレエ団で約16年のキャリアを積んできた杏紗さんに、これまでの転機を伺いました。(2019年5月)

オレゴン・バレエ・シアター プリンシパル 杏紗カピツィさん
杏紗カピツィ(あんさ・かぴつぃ)

愛知県名古屋市出身。5歳の時、家族の影響でバレエを始める。2001年、神戸舞踊コンクールで2位。2002年、スイスのローザンヌ国際バレエコンクールに出場。2003年に渡米し、サンフランシスコのCity Ballet Schoolを経て、Oregon Ballet Theatreに研修生として入団。2007年、ソリストに就任。2018年よりプリンシパルに就任。Web: obt.org

祖母に「バレリーナの絵を描きたいからモデルになって」とお願いされたことがバレエを始めたきっかけです。祖母は踊りを見ることが大好きで、叔父は能楽師、姉もバレエを習うという家庭環境で育ちました。

高校卒業後は、サンフランシスコ・シティー・バレエスクールに留学。14歳の時、ここのバレエ団でダンサーだったクリストファー・ストウェルと、ダマラ・ベネットというコーチの講習を受けていて、彼らが呼んでくれたのです。留学前は、アメリカで基礎から学び直し、それからさまざまなオーディションを受けるつもりでした。ところが、入って3カ月程すると、クリストファーから「私はオレゴン・バレエ・シアター(以下OBT)のディレクター、ダマラはスクールディレクターに就任するからオレゴンに行く。研修生として杏紗を連れていってあげる」と言われたのです。OBTのことはよく知らないまま、ポートランドに引っ越しました。でも、これはとてもラッキーな転機だったと思います。

OBTの研修生として、休みもなく、朝から晩までバレエ漬けの日々。研修生同士、競い高め合い、1年後に、正式に入団ができました。

– ソリストとして経験してきたこと
2007年、OBTでは初めてダンサーにランクを付けることになり、ソリスト(トップに次ぐ地位)に選ばれました。うれしくて、ますます頑張ろうと決意しました。

これまでで辛かったことは、足の甲の骨折ですね。6カ月も舞台に出られませんでした。でも、おかげで、私には健康で踊ることが1番大切と気付けました。OBTはディレクターも素晴らしく、舞台のレパートリーも幅広い上、ダンサーの結束力も堅くてお互いリスペクトできるので、他のバレエ団で踊ることは考えたことがありません。

そしてソリストとして約10年。その間にディレクターも変わり、先輩プリンシパルのリタイアを見届け、同期もリタイアしていきました。自分自身は、いつからか「このままソリストとしてダンサー生活を終えるのだろうな」となんとなく思うようになっていました。ですが、ある日のミーティングで、18年のプリンシパルとして、名前を呼ばれたのです。このときは、正直、うれしさよりも、驚きの方が大きかったです。

– プリンシパルに必要な努力と個性
プリンシパルになって何かが突然変わるわけではありません。でも、日々の練習に120%で臨み、もっと自分に厳しくしなければと思うようになりました。練習でできないことは舞台でも絶対にできないので、練習の段階で何でもできるようにしています。また、舞台の裏でも、人に見られて恥ずかしくないよう、今まで以上に気を配るようになりました。プリンシパルになっても、毎日が勉強です。

今、プリンシパルとして初めてのシーズンが終盤に差し掛かり、もっと自分らしく踊りたいと思っています。これまでは皆とそろえることに気を遣うこともありましたが、プリンシパルとしてソロで踊るなら、テクニックに加え、自分らしさや個性が必要だと実感しているところです。ダンサーとして納得して終われるように、そして後悔のないように、できる限り踊り続けていきたいです。

オレゴン・バレエ・シアター プリンシパル 杏紗カピツィさん
▲ ヘレン・ピッカーによる『Petal』での杏紗さん(中央)。OBTではクラシック、モダン、さまざまなタイプのバレエに挑戦しています。

 

 
*情報は2019年5月現在のものです

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