シアトルやポートランドで活躍する方々に人生の転機についてインタビュー
■ 2023年3月、ポートランド領事事務所に新しく吉岡雄三総領事が着任しました。長く、ポーランドと日本の国交に尽くしてきた吉岡総領事に、これまでの転機を伺いました。(2023年6月)
埼玉県出身。1983年東京外国語大学(ロシア語専攻)卒業後、外務省に入省。84年よりポーランドの大学に留学し、1986〜1990年、2000〜2003年、2010〜2013年の3度にわたりポーランド大使館で勤務。外務省研究所、カルガリー領事館、ネパール大使館などを経て、2023年3月より現職。好きな食べ物は魚介類、特にイカ。趣味はキャンプ、スキー、料理など。
子どもの頃、さまざまな国を紹介する『NHK特派員報告』という番組が大好きでした。見たことのないものを見たい、行ったことのない場所に行きたいという好奇心が強かったのでしょう。外国の生活や外国人の考えを知るには外国語を勉強しなければと東京外国語大学に進学しました。ロシア語を専攻したきっかけの一つは、メキシコ五輪で体操ロシア代表のナタリア・クチンスカヤ選手が活躍し、「この人と話してみたい」と思ったことです。五輪当時、私は8歳で、随分とマセた子どもでしたね(笑)。
学生時代は新聞記者になりたかったのですが、大学の先輩が外務省の試験を受けると聞いて調べてみると、海外で仕事をする機会が多いと分かり、私も挑戦したくなり試験を受けました。この転機をくれた先輩とは、今でも外務省の先輩後輩として親しくしています。
– 入省後に始まったポーランドとの縁
入省後の語学研修でポーランド語の担当になりました。これがポーランドとの付き合いの始まりです。研修で初めてポーランドに行った1984年は、まだ共産党政権下で店に物がなく、人々は怒り、社会に緊張感が漂っていました。その後、東欧変革のうねりの中で隣国ドイツでベルリンの壁の崩壊が起きましたが、ポーランドでは労組「連帯」が中心となり、平和的に民主化が進みました。
当時のことで印象深いのは、海部総理大臣(当時)とワレサ労組「連帯」議長の会談です。会談数日前にワレサ氏が「(会場の)ワルシャワに行かない」と言い出してしまい…。慌ててポーランド外務省に無断で大使とワレサ氏の側近のところに出向き、ワレサ氏の説得を依頼すると、側近が目の前でワレサ氏に電話をし、総理と会うよう説得してくれました。後でポーランド外務省から強く叱られましたが、外交とは、正攻法だけでなく、時には違うルートで切り込むことも必要と思い知った一件です。
その後は、日本で軍縮やポーランドに関わる仕事を続け、2000年に再びポーランド大使館へ。しかし、そこで脳卒中になりました。日本に戻り、7年ほど外務省の研修施設でで勤務。その後、回復するとポーランド、カルガリー、ネパールなどでの海外赴任に復帰しました。
ネパールの思い出は、コロナ渦で政府がロックダウンを導入し、ネパールに取り残された邦人旅行者にチャーター便を手配したことです。その後も主にネパール人のために10数便のチャーター便を飛ばしましたが、国内移動が制限されていたので、オペレーションに苦労しました。
– 日本とポートランドの架け橋として
そして東京での勤務を挟み、今春、ポートランドに着任しました。当地は立派な日本庭園があるほか、州立大学には日本研究センターがあり、日本語学習者も多い上、日系人の長い歴史もあります。アメリカの中でも非常に日本とのつながりが強い土地ですね。できる限り地域のイベントや団体に赴き、地元の人たちと親交を深めていくことを楽しみにしています。
また、安全確保と質の高い領事サービスを第一に、在留邦人の皆さんに開かれた領事館でありたいものです。何かあれば、いつでも連絡をいただきたいと思っています。
▲23年4月、在ポートランド領事事務所主催日本語スピーチコンテスト。州内の中高生が参加し、オレゴンの日本語学習の裾野の広さを感じさせる大会でした。