シアトルやポートランドで活躍する方々に人生の転機についてインタビュー
■ 100年以上前、シアトルの日本町に一軒の日本菓子屋がありました。今、その菓子屋の末裔にあたる渡辺さんが、シアトル再進出を目指して始動しています。これまでの転機をうかがいました。(2015年10月)
長野県松本市出身。1972年、ベーカリーのスヰト創業者のひ孫として生まれる。中学生まで地元松本で過ごし、神戸のインターナショナルスクールへ進学。96年コーネル大学ホテル経営学部卒業。同年、ヒルトンホテルに入社し、Hilton at Short Hillsに配属。98年、株式会社スヰトに入社。2000年に副社長、03年、社長に就任。
私の曽祖父は長野県松本市からシアトルへ渡り、1913年に菓子店「開運堂」を創設しました。11年後に開運堂を他の人に譲ると帰国。松本でベーカリー「スヰト」を始め、祖父、父と受け継ぎ、私で4代目です。また、私の母は日系アメリカ人なのでLAに親戚も多く「アメリカの高等教育はいいよ」と子どもの頃から聞かされていたので、高校は神戸のインターナショナルスクールへ、大学はコーネル大学のホテル経営学部へ進学しました。家業を継ぐことを強制されたことはないですが、万が一、継ぐことになったときにサービス業なら役に立つだろうと思ったのです。卒業後はNJのヒルトンホテルに就職しました。
就職から2年、NYに住んでいた姉が一時帰国から帰るなり「祖父に元気がなくなってきているから、日本に帰ったら?」と言いました。アメリカのライフスタイルは大好きだったけど、3代一緒に働くことはめったにできないと思い、帰国を決断したんです。
– 100周年で感じた シアトルとの運命
祖父は帰国1年後に亡くなったので、3代一緒に1年間仕事ができたのはよかったです。でも、小売りもパン作りも全く経験したことがなかったので、想像以上に大変で…。ゼロから職人さんたちにもまれて苦労しました。
私が働いていたホテルは厨房も新しくて奇麗。それに私はインターナショナルスクールへ行って、大学も就職もアメリカで、半分アメリカ人のような考え方です。でも、うちは昔ながらの薄暗いパン工場だし、父には長く日本で働いてきた経験による考えがあるわけです。最初の5、6年くらいは会社の方向性などについて、価値観の違いで父とかなりぶつかりました。時間をかけて徐々に分かり合えるようになり、父も私に任せるスタンスにだんだん変わってきたように思います。
その後、スヰトが100周年を迎えた2013年が大きな転機となりました。100年前に店があった場所や、曽祖父と交流のあった方々の子孫について知りたくなり、シアトルに行ったんです。松本とゆかりのある方たちと知り合ったり、地元ベーカリーのオーナーと親しくなるうちに、シアトルは面白い街だな、この街にスヰトが存在するのも悪くないなと思い始めました。
この旅に地元テレビ局のクルーもついてきて、スヰト100周年のドキュメンタリー番組を制作してくれたんです。番組では、歴史に翻弄されながら日米を生き抜いてきた曽祖父や、アメリカに残る決断をした結果、収容所に入れられた曽祖父の関係者を紹介。制作過程で、曽祖父の関係者たちと母方の祖父母が同じマンザナー収容所に入れられていたことが分かるなど、なにか運命を感じ、後押しされたのもあります。それに最近、日本は閉塞気味なのに外に出ようとしません。でも、私はいろいろな人とアイデアを交差させて新しいものを生み出してみたいんです。
– いよいよ始動した シアトルのスヰト
シアトルでの今後を模索する中、今年9月にシアトルで会社を設立しました。具体的にいつから何を始めるかは決まっていませんが、動ける準備をしておかないといけないので。将来的には、曽祖父のいたシアトルで日本らしいベーカリーやカフェを始めることを考えています。
▲ 番組制作クルーと共に、マンザナー収容所を訪れたときの様子(渡辺さんは右から2番目)
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